智恩寺歴史-修学旅行・観光ポイント

智恩寺

智恩寺の時代別年表と重要人物

智恩寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。智恩寺は808年(大同3年)に第51代・平城天皇の勅願寺として創建されたとも言われています。904年(延喜4年)に第60代・醍醐天皇から勅額を賜ったとも言われています。なお智恩寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(蓮台野)】

★文殊菩薩(もんじゅぼさつ)は菩薩の一尊で、一般的に普賢菩薩(ふげんぼさつ)とともに釈迦如来(しゃかにょらい)の脇侍(きょうじ)とされています。文殊菩薩は釈迦如来・普賢菩薩とともに釈迦三尊とも言われています。文殊菩薩は智慧(ちえ)を司り、「三人寄れば文殊の智恵」ということわざの由来になっています。また文殊菩薩は般若波羅蜜(はんにゃはらみった)を説き、「般若経(はんにゃ)」を編集したとも言われています。「華厳経(けごんきょう)」では東方・清涼山(しょうりょうざん)に住むとされ、中国・五台山(ごだいさん)の清涼寺(せいりょうじ)が霊地にあたるとされています。日本では奈良・葛城山(かつらぎさん)が霊地とされています。文殊菩薩像は獅子(しし)の背の蓮華座(れんげざ)に結跏趺坐(けっかふざ)し、右手に智慧を象徴する利剣(りけん)、左手に経典を乗せた青蓮華(しょうれんげ)を持っています。なお智恩寺は本尊(秘仏)・文殊菩薩像(重要文化財)を安置し、奈良県桜井市の安倍文殊院(あべもんじゅいん・安倍文殊)・山形県高畠町の大聖寺(だいしょうじ・亀岡文殊)とともに日本三文殊に数えられています。(諸説あり)

【智恩寺創建(起源・由来)】

★智恩寺は寺伝によると808年(大同3年)に第51代・平城天皇(へいぜいてんのう)の勅願寺(ちょくがんじ)として創建されたとも言われています。智恩寺は当初、真言宗(しんごんしゅう)の寺院でした。
★室町時代に制作された「九世戸縁起(くぜとえんぎ)」によると神々が日本の島々を造っていた頃、この地は荒海の神・龍神に占領されて人々が住むことができず、神々が相談すると中国・五台山から智恵第一の仏・文殊菩薩を招くことになりました。文殊菩薩は龍神を人々を護る善神に改心させ、神々は文殊菩薩の如意に乗って海に降り、如意が浮かんだのが天の浮橋(あまのうきはし)と言い、龍神が一夜にして土を置いて天橋立(あまのはしだて)になったとも言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★904年(延喜4年)に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)から勅額「天橋山智恩寺」を賜ったとも言われています。智恩寺では904年(延喜4年)を創建年次としているそうです。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★1290年(正応3年)に鉄湯船が河内国の鋳物師・山川貞清によって制作されたと言われています。鉄湯船は現在、手水鉢(ちょうずばち)として使用されています。
★1322年(至治2年)に金鼓が高麗(こうらい)で制作されたと言われています。
★鎌倉時代後期に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)立像が造仏されました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

★南北朝時代に絹本著色(けんぽんちゃくしょく)釈迦三尊(しゃかさんぞん)像・絹本著色地蔵菩薩像が制作されたと言われています。
★南北朝時代以降に智恩寺が真言宗から禅宗に改められたとも言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★1486年(文明18年)に「九世戸智恩寺幹縁疏并序」が制作されました。
★1501年(文亀元年)に丹後国守護代・延永春信が多宝塔を建立しました。また同年に多宝塔の本尊・大日如来(だいにちにょらい)坐像も造仏されました。
★1500年(明応9年)頃に水墨画家で、禅僧・雪舟(せっしゅう)が「天橋立図(国宝)」を描きました。「天橋立図(国宝)」には多宝塔や石仏などが描かれています。
★室町時代に「九世戸縁起」が制作されました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★江戸時代に丹後地方出身の傑僧・別源宗調禅師(べつげんそうちょうぜんじ)が中興開山として迎えられ、臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派(みょうしんじは)の禅寺になりました。
★1655年(明暦元年)に宮津藩3代藩主・京極高国(きょうごくたかくに)が文殊堂を修理し、1657年(明暦3年)に屋根が葺き替えられ、現在の姿になったと言われています。
★1722年(享保7年)に鐘楼門(暁雲閣)が建立されました。
★1767年(明和4年)に山門(黄金閣)が建立されました。
★1799年(寛政11年)に庫裏が再建されました。庫裏は東西約15メートル・南北約20メートル・高さ約10メートルです。
★1841年(天保12年)に方丈が再建されました。方丈は東西約24メートル・南北約16メートルです。
★1849年(嘉永2年)に鎮守堂が再建されました。鎮守堂は東西約3メートル・南北約2メートルです。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★1881年(明治14年)に鐘楼が建立されました。鐘楼は東西南北約3.6メートルです。
★1997年(平成9年)~1999年(平成11年)に文殊堂で平成の改修が行われました。
★2017年(平成29年)に文化庁が智恩寺を「日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定しました。

【第51代・平城天皇:智恩寺開基】

第51代・平城天皇は774年(宝亀5年)に第50代・桓武天皇と皇后・藤原乙牟漏の間に生まれ、桓武天皇の第1皇子でした。785年(延暦4年)に叔父で、皇太弟・早良親王が藤原種継暗殺に連座して廃されると皇太子になりました。806年(大同元年)に平城天皇に即位し、父による平安京造営や蝦夷征討などによる財政の破綻を収拾する為、律令制の官司を大幅に整理したり、地方の視察の為に観察使を創設したりし、政治の刷新に努めました。ただ809年(大同4年)に病気によって僅か3年で異母弟である第52代・嵯峨天皇に譲位し、旧都である奈良・平城京に移りました。その後810年(弘仁元年)に寵愛した藤原薬子とその兄・藤原仲成に唆され、天皇に復位を企てる薬子の変を起こしたが、失敗して出家し、821年(弘仁12年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海から灌頂を受けました。平城天皇は薬子の変後も「太上天皇」の称号はそのままで、異母弟・嵯峨天皇の朝覲行幸も受けました。なお第51代・平城天皇は824年(弘仁15年)8月5日に崩御しました。

【智恩寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・智恩寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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