生身天満宮の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

生身天満宮

生身天満宮の歴史を時代別年表にまとめ

生身天満宮の歴史は901年(延喜元年)に菅原道真が太宰府に左遷を命ぜられた際、武部源蔵が自ら菅原道真の木像を刻み、生祠を建立したのが起源と言われています。生身天満宮は日本最古の天満宮とも言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

【前史(蓮台野)】

★生身天満宮が祀られている園部は菅原氏の知行所で、標高約174メートルの小麦山(こむぎやま・子向山)に祭神・菅原道真(すがわらのみちざね)の邸宅があったと言われています。

【生身天満宮の起源・始まり】

★生身天満宮は平安時代前期の901年(延喜元年)に菅原道真が太宰府(だざいふ)に左遷を命ぜられた際、園部の代官・武部源蔵(たけべげんぞう・武部左衛門尉治定)が自ら菅原道真の木像を刻み、生祠(いきほこら)を小麦山邸内に建立したのが起源と言われています。生身天満宮は国内で唯一、菅原道真が生きていた時に生祠として祭祀が始まったことから生身天満宮と称し、日本最古の天満宮とも言われています。なお武部源蔵は菅原道真が太宰府に左遷された際、大宰府に向かう菅原道真の後を追い、東寺の正殿で対面して別れを申し上げ、形見として松風の硯などを賜り、菅原道真の8男・菅原慶能(すがわらのけいのう)の養育を頼まれたと言われています。武部源蔵は菅原慶能を連れて園部へ戻り、養育しながら菅原道真の帰洛を待ったと言われています。生身天満宮では武部源蔵の子孫が宮司家を務めています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★903年(延喜3年)2月25日に菅原道真が太宰府で亡くなると生祠が霊廟に改められました。
★955年(天暦9年)9月7日に神殿が竣工し、正遷宮の式が行われました。霊廟が神社に改められて祭祀が始まったと言われています。菅原道真の没後に京都で凶変が相次ぎ、菅原道真の祟りと恐れられ、それを鎮める為、947年(天暦元年)に京都北野の右近の馬場に北野天満宮(きたのてんまんぐう)が創建され、諸国の由緒ある場所にも神社を創建して祭祀を行うようにと勅諚が発せられたそうです。竹内筑前守茂時と称していた菅原道真の8男・菅原慶能も霊廟を神社に改めて祭祀を行ないました。なお生身天満宮では9月7日を例祭日と定め、その後10月の第3日曜日に例祭(秋祭り)を行っています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★長禄年間(1457年~1459年)に室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の命により、室町幕府管領・細川武蔵守(ほそかわむさしのかみ)が本社や末社などを再建し、社領が寄進されました。その後生身天満宮は手厚く守護されました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1653年(承応2年)に但馬国出石城から移封された園部藩初代藩主・小出吉親(こいでよしちか)が小麦山に園部城(そのべじょう・園部陣屋(そのべじんや))を築城した際、現在の場所である天神山に移され、小出藩の祈願所として社領・神器・神宝が寄進されました。天神山への遷座は園部城から見下ろすことなく、日々仰ぎ尊崇する為だったと考えられています。なお園部城は江戸幕府の指示により、櫓の造営が認められず、天守閣がなかったことから園部陣屋とも言われていたが、1868年(慶応4年)に三層の小麦山櫓などが造営されました。
★1750年(寛延3年)に園部藩5代藩主・小出英智の特命により、藩費による神幸行列が定められ、その後百十余年間行われました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★1873年(明治6年)6月に郷社に列せられました。
★1919年(大正8年)12月8日に郷社から府社に昇格しました。
★1946年(昭和21年)に社格が廃されました。
★2002年(平成14年)に菅原道真公1,100年記念大祭が行われました。生身天満宮では901年(延喜元年)の創建から25年ごとに式年大祭を行っており、2002年(平成14年)は44回を数えました。

【生身天満宮を創建した武部源蔵】

武部源蔵(武部左衛門尉治定)は詳細が不明です。武部源蔵は933年(承平3年)6月29日に亡くなったと言われています。境内北側の参道沿いに武部源蔵の墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、その傍ら奥に武部源蔵社が祀られています。武部源蔵は菅原道真の8男・菅原慶能とともに日本三大歌舞伎「菅原伝授手習鑑」に登場します。「菅原伝授手習鑑」では武部源蔵は菅家に仕えていたが、菅家に奉公していた戸浪と恋仲になり、不義を御法度とする掟から菅丞相に勘当されます。2人は都を離れて寺子屋を営んでいたが、菅丞相から書の才能を認められ、筆法を伝授されます。その後菅丞相が流罪になると菅家の跡取りである菅秀才を我が子として育てたが、藤原時平に知られ、菅秀才を討てと命じられて悩みます。武部源蔵は新しく寺子屋に入った小太郎の首を討ち、検視役の松王丸に菅秀才の偽首を差し出します。その後松王丸は小太郎は我が子で、菅丞相の恩に報いる為、小太郎を菅秀才の身代わりとなるようにと寺子屋に入れたことを打ち明けました。

【生身天満宮 備考】
*参考・・・生身天満宮(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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