広隆寺の歴史は秦河勝が弥勒菩薩を本尊に蜂岡寺と称したのが起源
広隆寺の時代別年表と重要人物
広隆寺は「日本書紀」によると603年(推古天皇11年)に渡来人氏族・秦河勝が聖徳太子から賜った仏像・弥勒菩薩を本尊に蜂岡寺と称したのが起源です。広隆寺は秦氏の氏寺で、京都最古の寺院とも言われています。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【渡来人氏族・秦氏】
- 広隆寺が建立されている一帯は渡来人(とらいじん)氏族・秦河勝(はたのかわかつ)の一族が住した場所とも言われています。
【広隆寺の起源・始まり】
- 広隆寺は603年(推古天皇11年)に秦河勝が第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の第2皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)から賜った仏像・弥勒菩薩(みろくぼさつ)を本尊として創建し、蜂岡寺(はちおかでら)と称したのが起源とも言われています。広隆寺は秦氏の氏寺で、京都最古の寺院とも言われています。日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」によると聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に尋ね、秦河勝が仏像を譲り受けて蜂岡寺を建立したと言われています。なお広隆寺はかつて北区北野上白梅町の北野廃寺跡に建立されていたが、794年(延暦13年)の平安京遷都とともに現在の場所に移ったと言われています。
- 616年(推古天皇24年)に金銅救世観音(くぜかんのん)像が新羅(しらぎ)からもたらされたと言われています。
- 広隆寺は622年(推古天皇30年)に聖徳太子が亡くなり、聖徳太子の供養の為に創建され、葛野秦寺(かどののはたでら)と言われたのが起源とも言われています。「広隆寺縁起(承和縁起)・838年(承和5年)成立」や「広隆寺資財交替実録帳・890年(寛平2年)頃成立」によると622年(推古天皇30年)に亡くなった聖徳太子の供養の為に創建されたと言われています。
- 広隆寺はかつて蜂岡寺・葛野秦寺・太秦寺(うずまさでら)・秦寺(はたでら)・秦公寺(はたのきみでら)・葛野寺(かどのでら)などとも言われていました。広隆寺は法隆寺(ほうりゅうじ)・四天王寺(してんのうじ)・中宮寺(ちゅうぐうじ)・橘寺(たちばなでら)・葛木寺(かつらぎじ)・法起寺(ほうきじ)とともに聖徳太子建立七寺(聖徳太子建立七ヵ寺)に数えられました。
【飛鳥時代(592年~710年)の出来事】
- 623年(推古天皇31年)に新羅(しらぎ)・任那(みまな)の使者が訪れ、請来した仏像が広隆寺に安置されたとも言われてます。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】
- 724年(神亀元年)に勅願によって伝法会(でんぽうえ)が広隆寺で毎年行われるようになったとも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 797年(延暦16年)に広隆寺の本尊が弥勒菩薩から向日明神(むこうみょうじん)由来の薬師如来(やくしにょらい)に改められたと言われています。ただ薬師如来は818年(弘仁9年)の火災によって焼失し、再造仏されたとも言われています。
- 818年(弘仁9年)に伽藍を全焼し、広隆寺創建時の伽藍が失われました。
- 824年(弘仁15年)に勅願によって仏名会(ぶつみょうえ)を宮中で修したと言われています。
- 836年(承和3年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の高弟・道昌僧都(どうしょうそうず)が別当(べっとう)になり、伽藍を再建したり、仏像を再造仏したりし、道昌僧都は広隆寺中興の祖と言われています。
- 1012年(長和元年)に牛祭りが始まったと言われています。
- 1016年(長和5年)に三条上皇(第67代・三条天皇(さんじょうてんのう))が広隆寺に行幸し、1104年(長治元年)に第72代・白河天皇(しらかわてんのう)、1127年(大治2年)・1132年(天承2年)に第74代・鳥羽天皇(とばてんのう)が行幸したと言われています。
- 1150年(久安6年)に伽藍を全焼したと言われています。
- 1165年(長寛2年)に公家・藤原信頼(ふじわらののぶより)が勅命により、講堂(赤堂)などを再建しました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 1248年(宝治2年)に勅願によって広隆寺で法華会(ほっけえ)を毎年行われるようになったとも言われています。
- 1251年(建長3年)に中観上人(ちゅうかんしょうにん)・澄禅が桂宮院本堂を建立したと言われています。桂宮院本堂は太子信仰の隆盛に伴って建立されたと言われています。
- 1254年(建長6年)・1265年(文永2年)・1266年(文永3年)に第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が広隆寺に行幸したと言われています。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の出来事】
- 1532年(天文元年)に第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)が聖徳太子像に天皇即位の御衣(ぎょい)を贈ったと言われています。その後歴代天皇からも御衣を賜りました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
- 1577年(天正5年)に織田信長(おだのぶなが)が広隆寺に朱印状を与えたと言われています。
- 1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が広隆寺の寺領600石を安堵したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 江戸時代に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)以来、歴代将軍が600石を安堵したと言われています。
- 1730年(享保15年)に上宮王院太子殿が建立されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 明治維新後に神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、鎮守社・大酒神社(おおさけじんじゃ)が現在の場所に移されました。
【広隆寺の開基とされる秦河勝】
秦河勝は秦(中国)の始皇帝をルーツとし、3世紀から7世紀頃に大陸から日本に渡来した渡来人・秦氏の族長的人物だったとも言われています。秦河勝は聖徳太子から仏像を賜わって京都・広隆寺 (蜂岡寺)を創建したり、物部守屋討伐に従軍したりしたとも言われています。また秦河勝は能楽の大成者・世阿弥が記した能の理論書「風姿花伝」によると聖徳太子が「六十六番の物まね」を作らせて紫宸殿で舞わせ、「申楽(猿楽)」の起源になったとも言われています。平安時代中期の第62代・村上天皇の時代に秦河勝の末裔・秦氏安が紫宸殿で「翁」を演じたと言われています。
【広隆寺 備考】
*参考・・・広隆寺(歴史・見どころ・・・)