桂離宮の歴史は智仁親王の別邸として造営されたのが起源
桂離宮の時代別年表と重要人物
桂離宮は1590年(天正18年)に八条宮家が創設され、第106代・正親町天皇の皇孫である八条宮初代・智仁親王の別邸として造営されたのが起源です。桂離宮は瓜畠のかろき茶屋と称する簡素な建物だったと言われています。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【桂離宮が造営されている場所】
- 桂離宮が造営されている場所には平安時代中期に第68代・後一条天皇(ごいちじょうてんのう)、第69代・後朱雀天皇(ごすざくてんのう)、第70代・後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)の外祖父で、太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)の山荘(別業(べつぎょう))・桂家(かつらや・桂殿(かつらどの))がありました。藤原道長の日記「御堂関白記(みどうかんぱくき)」によると桂家(桂殿)で、月見の宴を催したと言われています。なお桂家(桂殿)は紫式部(むらさきしきぶ)作の「源氏物語(げんじものがたり)」松風の巻に記されている「桂殿」のモデルになったと伝えられています。
【桂離宮の起源・始まり】
- 桂離宮は安土桃山時代の1590年(天正18年)に八条宮(はちじょうのみや)家が創設され、第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の皇孫である八条宮初代・智仁親王(としひとしんのう)の別邸として造営されたのが起源です。桂離宮は当初、「瓜畠(うりばたけ)のかろき茶屋」と称する簡素な建物だったと言われています。桂離宮は桂山荘・桂別業(かつらべつぎょう)などとも言われていました。なお桂離宮が造営されている下桂村は川勝村・徳大寺村・凪村・御陵村・開田村とともに八条宮の知行地(ちぎょうち)で、江戸時代前期の1617年(元和3年)に出された江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の花押がある知行安堵状(あんどじょう)が残されています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 1615年(元和元年)頃に古書院が造営されたと言われています。古書院は当初、単独の建物として造営されました。
- 1616年(元和2年)に八条宮初代・智仁親王が桂離宮を訪れたとも言われています。智仁親王の「智仁親王御年暦」元和2年(1616年)6月27日条に「六月廿七日川勝寺瓜見。桂川逍遥。連歌衆乱舞衆同道」と記されています。
- 1618年(元和4年)に八条宮初代・智仁親王が公卿・近衛信尋らを招き、東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の入内について話し合ったと言われています。「智仁親王御年暦」元和6年(1620年)6月18日条に「女御入内、下桂茶屋普請スル、度々客アリ」と記されています。なお福門院(徳川和子)は1614年(慶長19年)に入内の宣旨が出されたが、その後1614年(慶長19年)~1615年(慶長20年)の大坂の陣・1616年(元和2年)の江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の死去・1617年(元和3年)の第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の崩御・およつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)などが続き、延期されていたが、1620年(元和6年)に14歳で入内しました。
- 1620年(元和6年)に庭園の工事が始まったとも言われています。
- 1624年(寛永元年)に庭園が完成し、相国寺の昕叔顕啅(きんしゅくけんたく)が招かれ、「天下の絶景也」と言ったと言われています。
- 1629年(寛永6年)に八条宮初代・智仁親王が亡くなり、数え年11歳の八条宮2代・智忠親王(としただしんのう)が引き継ぎました。
- 1631年(寛永8年)に桂離宮が荒廃したとも言われています。「鹿苑日録」寛永8年(1631年)8月24日条に「無修補故荒廃甚」と記されています。
- 1649年(慶安2年)に金閣寺(鹿苑寺(ろくおんじ))の鳳林承章(ほうりんじょうしょう)が桂離宮の茶会に招かれました。鳳林承章の日記「隔冥記(かくめいき)」に「於桂御茶之湯也・・・御茶後方々御茶屋五ヶ所有之。於処々而酌酉水、御遊興」と記されています。
- 1641年(寛永18年)頃に中書院が造営されたと言われています。
- 1652年(承応元年)に月波楼(げっぱろう)が造営されたと言われています。
- 1655年(承応4年)に笑意軒(しょういけん)が造営されたと言われています。
- 1662年(寛文2年)頃に新御殿・楽器の間が造営されたと言われています。新御殿は1663年(寛文3年)の後水尾法皇(第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう))の行幸に備え、御幸御殿として造営されたと言われています。新御殿には桂棚があり、修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)・中御茶屋客殿の霞棚と醍醐寺(だいごじ)の塔頭(たちゅう)・三宝院(さんぼういん)宸殿の醍醐棚とともに天下三名棚に数えられています。桂棚の裏にある御化粧の間の棚は裏桂棚とも言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 1876年(明治9年)に三条実美(さんじょうさねとみ)らが大久保利通(おおくぼとしみち)・伊藤博文(いとうひろぶみ)らを伴って訪れました。第122代・明治天皇(めいじてんのう)の皇后が行啓しました。
- 1877年(明治10年)に明治天皇が行幸しました。
- 1878年(明治11年)に第7回京都博覧会に際し、御殿に調度品が飾られ、参観者に公開されました。
- 1881年(明治14年)に桂宮淑子内親王(かつらのみやすみこないしんのう)が亡くなると桂宮家は断絶しました。なお八条宮は常盤井宮(ときわいのみや)・京極宮(きょうごくのみや)・桂宮と改称していました。
- 1883年(明治16年)に桂離宮が宮内省所管になり、桂離宮と称するようになりました。
- 1933年(昭和8年)に来日したブルーノ・タウトが桂離宮を絶賛し、国際的の知名度が高まりました。
- 1934年(昭和9年)に賞花亭(しょうかてい)が室戸台風で倒壊し、翌1935年(昭和10年)に新材で復元されました。なおかつての賞花亭は今出川にあった八条宮本邸の龍田屋を移築したものでした。
- 1964年(昭和39年)に景観保存の為に周辺の農地が買い上げられました。
- 太平洋戦争後に桂離宮は宮内庁が管理するようになりました。
- 1976年(昭和51年)からの大修理の際、中書院の地下の発掘作業が行われ、人工的な池跡が発見されました。
【桂離宮を創建した八条宮智仁親王】
八条宮智仁親王は1579年(天正7年)に誠仁親王と勧修寺晴右の娘・藤原晴子(新上東門院)の子として生まれました。八条宮智仁親王は誠仁親王の第6王子で、第106代・正親町天皇の孫です。兄・邦慶親王(興意法親王)が織田信長の猶子になったことから1586年(天正14年)に八条宮智仁親王は今出川晴季の斡旋により、関白・豊臣秀吉の猶子になり、関白職が約束されていたが、1589年(天正17年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が鶴松を生むと取り消され、豊臣秀吉の奏請によって八条宮家を創設しました。1591年(天正19年)に親王宣下を受け、その後元服しました。1600年(慶長5年)に細川幽斎(細川藤孝)から古今伝授を受け、1625年(寛永2年)に甥で、第108代・後水尾天皇に相伝しました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると兄で、第107代・後陽成天皇が次期天皇継承者とされていた子・良仁親王を廃し、弟である八条宮智仁親王に皇位を譲ろうと考えたが、反対で断念し、良仁親王の弟・政仁親王が後水尾天皇に即位しました。八条宮智仁親王は和歌・連歌に堪能で、自邸で和歌・連歌の会を催したり、禁中の学問講で講義を行ったりしました。なお八条宮智仁親王は1629年(寛永6年)に亡くなりました。
【桂離宮 備考】
*参考・・・京都・桂離宮(アクセス・見どころ・・・)ホームページ