養源院歴史-修学旅行・観光ポイント
養源院歴史の簡単まとめ
養源院歴史を簡単にマトメてポイント解説します。養源院は1594年(文禄3年)に関白・豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政らの21回忌の供養の為に豊臣秀吉に願って、比叡山の僧・成伯法印を開山として創建したのが起源です。なお養源院歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(浅井長政)】
★浅井長政(あざいながまさ)は1545年(天文14年)に浅井久政(あざいひさまさ)の嫡男として、六角氏の居城・観音寺城下で生れました。15歳で元服し、六角氏が浅井氏と臣従関係を明確にする為、六角氏当主・六角義賢の一字から「賢政」と名乗らせ、六角氏の家臣・平井定武の娘と結婚させました。ただ直ぐに離縁しました。1560年(永禄3年)に六角軍を野良田の戦いで破ると重臣らの支持によって父を竹生島に追放して家督を継ぎ、1561年(永禄4年)に名前を「長政」に改名しました。その後六角氏の筆頭家臣・後藤賢豊が六角氏当主・六角義治を殺害する観音寺騒動などにより、勢力を拡大しました。1567年(永禄10年)に織田信長(おだのぶなが)が美濃(岐阜)を平定するとその妹・お市と結婚して同盟関係を結びました。1570年(元亀元年)に織田信長が越前(福井)・朝倉義景(あさくらよしかげ)の攻略に乗り出したところ突如織田信長を裏切り、背後から攻撃しました。その後朝倉氏とともに姉川の戦で戦うが、敗北しました。以後、本願寺(ほんがんじ)・武田信玄(たけだしんげん)・比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)などと連携し、信長包囲網を築きました。1572年(元亀3年)に織田信長が本拠の小谷城に迫ると朝倉氏とともに戦ったが、武田信玄の到着を待たずに突然朝倉氏が帰国しました。1573年(天正元年)に織田信長が再び小谷城に出兵し、救援に駆けつけた朝倉氏を越前に追撃して滅ぼし、孤立無援になった小谷城で父とともに自害しました。なお妻・お市と3人の娘は助け出され、その後お市は柴田勝家(しばたかついえ)と再婚し、長女・茶々(ちゃちゃ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室、次女・初は京極高次(きょうごくたかつぐ)の正室、三女・江は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでたた)の正室になりました。
【養源院創建(起源・由来)】
★養源院は安土桃山時代の1594年(文禄3年)に関白・豊臣秀吉の側室・淀殿(よどどの・浅井茶々)が父・浅井長政、祖父・浅井久政、兄・万福丸(まんぷくまる)らの21回忌の供養の為に豊臣秀吉に願って、浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧・成伯法印(じょうはくほういん)を開山に天台宗(てんだいしゅう)の寺院として創建したのが起源です。養源院は浅井家の菩提寺(ぼだいじ)になり、豊臣秀吉が寺領300石を寄進しました。養源院の寺号は浅井長政の院号「養源院天英宗清」に由来しています。なお成伯法印は浅井長政の弟とも言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事・事件】
★桃山時代に養源院は天台宗五箇室門跡に数えられる毘沙門堂(びしゃもんどう)の脇門跡になったと言われています。
★1595年(文禄4年)に方広寺(ほうこうじ)に大仏殿が完成し、大仏供養が行われました。
★1597年(慶長2年)に成伯法印は第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から紫衣(しえ)を賜りました。また養源院3世・慶算が毘沙門堂に入寺し、養源院の寺格が上がり、歴代養源院は大僧正(だいそうじょう)に任じられました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事・事件】
★1616年(元和2年)5月7日に淀殿の妹で、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の正室・お江(おごう・崇源院(すうげんいん))が1615年(慶長20年)の大坂の陣で自害した淀殿と豊臣秀頼(とよとみひでより)の菩提を養源院で弔いました。
★1619年(元和5年)に落雷によって養源院の伽藍が焼失したが、1621年(元和7年)にお江の願により、伏見城の御殿を移して伽藍が再建され、徳川家の菩提所になりました。養源院には徳川秀忠から江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)までの歴代江戸幕府将軍の位牌が祀られています。ちなみに廊下の天井には1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦と言われる伏見城の戦いにより、鳥居元忠(とりいもとただ)以下2,000人余りが伏見城を死守し、最後に自刃したことから血天井と言われています。なお本堂の襖12面・杉戸8面の絵は俵屋宗達(たわらやそうたつ)が描きました。
★江戸時代前期に小堀遠州(こぼりえんしゅう)が庭園を作庭したと言われています。
★江戸時代前期に東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))が母である崇源院の墓を建立しました。
★1797年(寛政9年)に第119代・光格天皇(こうかくてんのう)に三帰戒及び十念を授けました。ちなみに養源院の歴代住職は皇族に尽くした名僧だったと言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事・事件】
★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、本堂以外の伽藍が撤去され、庭園が破却されたと言われています。
★1945年(昭和20年)に天台宗から浄土真宗遣迎院派(けんこういんは)に改められました。
【淀殿:養源院開山】
淀殿(淀君・浅井茶々)は1569年(永禄12年)に近江国の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の長女として生れました。乳母は大蔵卿局(大野治長の母)・饗庭局(大叔母・海津殿の次女)・大局(前田利家の弟・佐脇良之の室)でした。1573年(天正元年)に父・浅井長政が伯父・織田信長と敵対して攻撃され、小谷城が落城する際に母・お市、次女・初、三女・江妹らとともに藤掛永勝に救出されたが、父・浅井長政、祖父・浅井久政は自害し、兄・万福丸は捕らえられ、伯父・織田信長の命によって豊臣秀吉によって処刑されました。その後織田信長の叔父・織田信次に預けられ、織田信次が亡くなると織田信長の岐阜城に移りました。1582年(天正10年)に明智光秀による本能寺の変で織田信長が自刃し、その後母・お市が柴田勝家と再婚すると妹達とともに越前国北の庄城(福井県福井市)に移りました。1583年(天正11年)に柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れると母・お市は自害し、妹達とともに豊臣秀吉の保護を受けたとも言われています。また織田信雄が後見して面倒をみたとも言われています。1588年(天正16年)頃に豊臣秀吉の側室になり、1589年(天正17年)に棄(鶴松)を産んで淀城を賜り、「淀殿」・「淀の方」などと言われるようになったが、1591年(天正19年)に鶴松が死亡しました。1593年(文禄2年)に拾(秀頼)を産み、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると大坂城に移り、秀頼の後見人である大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の実権を握りました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは豊臣秀頼の墨付きの発給や出陣を許さずに観望しました。1614年(慶長19年)に方広寺大仏殿の造営に伴う方広寺鐘銘事件によって大坂冬の陣が起こり、1615年(元和元年)に一旦和議が成立したが、その後大坂夏の陣が起り、大坂城が落城して豊臣秀頼らとともに自刃しました。淀殿は1615年(慶長20年)6月4日に亡くなりました。
【養源院歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・養源院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ