清水寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

清水寺見どころ(Kiyomizu-dera Temple)

清水寺の歴史を時代別年表にまとめ

清水寺の歴史を簡単にまとめています。清水寺は778年(宝亀9年)に延鎮上人・賢心が霊夢を受けたのが起源です。賢心は音羽山に行って滝を見付け、出会った行叡居士が残した霊木で千手観音像を刻み、行叡居士の旧庵に安置しました。(時代別年表・重要人物下記参照)

清水寺見どころ(清水の舞台・三重塔など)

【清水寺が建立されている音羽山】

  • 清水寺が建立されている音羽山(おとわやま・乙輪山)に標高約242メートルです。音羽山は南北約12キロに伸びる東山三十六峰に数えられ、清水山とも言われています。清水寺は山号を音羽山と言います。

【清水寺の起源・始まり】

  • 清水寺は奈良時代後期の778年(宝亀9年)に法相宗(ほっそうしゅう)大本山である奈良・興福寺(こうふくじ)の僧で、奈良・子島寺(こじまでら)で修行していた延鎮上人(えんちんしょうにん)・賢心(けんしん)が「南の地を去れ」・「木津川(きづがわ)の北流に清泉を求めて行け」という霊夢(お告げ)を受けたのが始まりと言われています。霊夢に従って、京都・音羽山(おとわやま)に行って滝を見付け、滝の畔で草庵を結んで、長年修行を続ける行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会いました。行叡居士は「あなたが来るのを待ち続けていた。私は東国に修行に行く。どうかこの霊木で観音(かんのん)像を彫刻し、この霊地にお堂を建ててくれ」と言い残して姿を消しました。延鎮上人・賢心は行叡居士が観音の化身であると悟り、行叡居士の旧庵に観音像を祀ったと言われています。清水寺は前記の歴史から十一面千手観音(じゅういちめんせんじゅかんのん)立像を本尊としています。また清泉は音羽の滝と言われるようになり、清水寺の寺号の由来になっています。なお清水寺は当初、興福寺に属していました。

【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】

  • 780年(宝亀11年)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が妻・三善高子(みよしのたかこ)の病気平癒の為に鹿の生き血を求めて音羽山に上り、延鎮上人・賢心に出会いました。坂上田村麻呂は清水寺開山である延鎮上人・賢心から鹿狩りの殺生を戒められ、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の教えを諭されたことから清水寺建立の協力を申し出て、自らの邸宅を仏殿(ぶつでん・本堂)に寄進しました。
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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

  • 平安時代初期の797年(延暦16年)に清水寺本願である坂上田村麻呂は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、清水寺で蝦夷(えぞ)平定を祈願し、延鎮上人・賢心は毘沙門天(びしゃもんてん)・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)を刻んで武運を祈願しました。坂上田村麻呂は敵地で「南無観世音(なむかんぜおん)、南無観世音」と祈ると毘沙門天・地蔵菩薩の化身とされる僧侶・老翁が現れ、僧侶は敵の矢を防ぎ、老翁は敵に矢を射って勝利しました。798年(延暦17年)に仏殿を大規模に改築し、毘沙門天・地蔵菩薩を観世音菩薩の脇侍(わきじ)として安置しました。観世音菩薩と毘沙門天・地蔵菩薩は清水寺独自の三尊形式で、毘沙門天は「勝敵毘沙門」、地蔵菩薩は「勝軍地蔵」と言われています。
  • 805年(延暦24年)に坂上田村麻呂が太政官符(だじょうかんぷ)によって清水寺の寺地を賜ったと言われています。
  • 805年(延暦24年)に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)によって清水寺が御願寺(ごがんじ)になり、810年(弘仁元年)に鎮護国家の道場になり、第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)から「北観音寺」の宸筆(しんぴつ)を賜りました。
  • 1014年(長和3年)に「源氏物語(げんじものがたり)」の作者・紫式部(むらさきしきぶ)が第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮・藤原彰子(ふじわらのしょうし・上東門院(じょうとうもんいん))の病気平癒の為に清水寺に参詣しました。
  • 1063年(康平6年)に清水寺が全山焼失しました。ちなみに清水寺は歴史上、江戸時代前期の1629年(寛永6年)の大火による焼失までの間、記録に残るだけでも9回も焼失しました。また清水寺は創建以来、10回を超える火災に見舞われたとも言われています。
  • 1091年(寛治5年)に「成通卿口伝日記(なりみちきょうくでんにっき)」によると蹴聖(しゅうせい)・藤原成通が舞台の欄干(らんかん)で蹴鞠(けまり)をしながら一往復したと記されています。清水の舞台が歴史上登場する初見です。
  • 1165年(永万元年)に「南都北嶺(なんとほくれい)」と言われる興福寺と延暦寺(えんりゃくじ)の対立により、延暦寺の僧兵が乱入して火災に見舞われました。
  • 平安時代中期から法相宗とともに弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)を宗祖とする真言宗(しんごんしゅう)を兼宗するようになりました。奥の院は法相宗と真言宗兼学で真言庵とも言われ、弘法大師・空海坐像を祀っています。
  • 平安時代中期頃には清水寺が観音霊場としてよく知られ、「源氏物語」の作者・紫式部と伊勢大輔(いせのたゆう)が同時に参詣した際の歌が残されています。紫式部は「心ざし 君にかかぐる ともし火の 同じ光に あふがうれしさ」、伊勢大輔「いにしへの 契りもうれし 君がため 同じ光に 影を並べて」と詠みました。また「枕草子(まくらのそうし)の作者・清少納言(せいしょうなごん)なども参詣しました。清少納言は「さわがしきもの」として、18日の観音の日に参拝者で混雑している本堂の様子を挙げています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

  • 1188年(文治4年)に浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が清水寺の阿弥陀堂で念仏を修しました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

  • 1335年(建武2年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が清水寺に相模糟屋荘を寄進したと言われています。
  • 1349年(正平4年・貞和5年)に室町幕府2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)が清水寺に尾張国竹鼻和郷を寄進し、伽藍を再建したと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

  • 室町時代中期の1467年(応仁元年)~1477年(文明9年)に応仁の乱(おうにんのらん)が勃発し、1469年(文明元年)に本堂など清水寺の伽藍の多くを焼失しました。その後清水寺本願職・願阿上人(がんあしょうにん)が第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)から再建の了承を得て本堂などを再建しました。願阿上人の住房は清水寺の塔頭(たっちゅう)・成就院(じょうじゅいん)になりました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

  • 安土桃山時代に織田信長が清水寺の塔頭・真乗院を廃絶させました。清水寺は近世「三職(宝性院・慈心院・成就院)六坊(義乗院・延命院・真乗院・智文院・光乗院・円養院)」によって運営され、宝性院が執行職、慈心院が目代職、成就院が本願職を務めていました。
  • 桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)により、清水寺の寺領130石が安堵されました。その後江戸幕府も継承しました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

  • 江戸時代前期の1629年(寛永6年)に大火によって本堂など清水寺の伽藍の多くを焼失しました。ただ仁王門・馬駐・鐘楼は焼失を免れました。
  • 1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進によって本堂(清水の舞台)が再建されました。同時期に奥の院・三重塔・開山堂・釈迦堂・阿弥陀堂・経堂・朝倉堂・轟門・西門など清水寺の伽藍の多くが再建されました。
  • 寛文年間(1661年~1673年)に本堂(清水の舞台)に安置されている地蔵菩薩(勝軍地蔵)が第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)の命により、洛陽四十八願所の霊場になりました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

  • 明治維新後の神仏分離令により、清水寺の鎮守社・地主神社(じしゅじんじゃ)が分離・独立しました。
  • 1897年(明治30年)に本堂(清水の舞台)が国の重要文化財に指定されました。
  • 1952年(昭和27年)に本堂(清水の舞台)が国宝に指定されました。
  • 1965年(昭和40年)に清水寺が法相宗(ほっそうしゅう)から独立し、北法相宗を開宗しました。
  • 1966年(昭和41年)に三重塔などが国の重要文化財に指定されました。
  • 1994年(平成6年)に清水寺がユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。

【清水寺の開山とされる延鎮上人・賢心】

延鎮上人・賢心は奈良時代から平安時代前期の法相宗の僧です。奈良・子島寺(子嶋寺)の報恩法師に学び、法相宗の大本山である奈良・興福寺の僧となり、報恩法師の死後に子島寺を継ぎました。その後778年(宝亀9年)に京都に移り、清水寺を開山しました。延鎮上人・賢心は821年(弘仁12年)に亡くなったとも言われています。

【清水寺 備考】
*参考・・・清水寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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