清水の舞台|飛び降り・高さ・構造などを解説|清水寺見所

清水の舞台完全ガイド|飛び降り・高さ・構造などを解説
清水の舞台はことわざの「清水の舞台から飛び降りる」で有名です。飛び降りは観音さまに祈って飛び降りると命が助かり、願いも叶うという願掛けなどが起源です。清水の舞台は高さが約13メートルで、構造が舞台造・懸造です。なお清水の舞台は国宝である本堂の一部です。(詳細下記参照)
【概要・概略|清水の舞台・本堂】
清水の舞台は国宝である本堂の一部で、本堂の前面に張り出すように広がっています。清水の舞台(本堂)は崖(がけ)である錦雲渓(きんうんけい)の斜面にせり出すように建立されています。清水の舞台は本堂に安置されている本尊・十一面千手観世音菩薩(じゅういちめんせんじゅかんぜおんぼさつ)立像に雅楽(ががく)・能(のう)・狂言(きょうげん)・歌舞伎(かぶき)などの芸能を奉納する場所で、両脇にある翼廊(よくろう)は音楽を奏でる楽舎(がくしゃ)として使われました。現在も清水の舞台では重要な法会(ほうえ)などで芸能が奉納されています。
●本堂は観音菩薩(かんのんぼさつ)がインドの南海岸にある八角の形状をした険しい補陀落山(ふだらくせん)に降り立つという「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)」に由来し、建築方法は急峻な崖に建つ懸造(かけづくり・舞台造)です。
●十一面千手観世音菩薩立像は1220年(承久2年)頃に再造されたと言われています。十一面千手観世音菩薩立像は33年に1度開扉される秘仏で、西国三十三所の第16番札所になっています。なお十一面千手観世音菩薩立像は十一の表情(十一面)と四十二の手(四十二臂)で、一切の衆生を救うとされています。合掌する二臂以外の四十臂が数珠・宝鏡・宝弓などを持ち、四十臂それぞれが25の法力が宿るとされています。40×25=1,000になります。
●清水の舞台では例年8月の千日詣りの際に六斎念仏(ろくさいねんぶつ)が奉納されています。2021年(令和3年)の紅白歌合戦では歌手・水森かおりさんが雪が舞う中、清水の舞台で山口百恵さんの「いい日旅立ち」を歌唱しました。
【歴史・時代|清水の舞台・本堂】
清水寺は延鎮上人(えんちんしょうにん)・賢心(けんしん)が音羽山に草庵を結んだのが起源です。本堂は奈良時代(710年~794年)後期に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が自邸を寄進して創建されたと言われています。その後平安時代中期の1063年(康平6年)から江戸時代前期の1629年(寛永6年)までの期間中に記録に残るだけでも9回も焼失しました。室町時代中期に応仁の乱で焼失し、その後願阿上人(がんあしょうにん)が再建したが、1629年(寛永6年)にも焼失しました。現在の本堂・清水の舞台は1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進によって再建されました。
●徳川家光は1604年(慶長9年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の次男として生まれました。病弱で、吃音があり、弟・徳川忠長が生まれると世継ぎ争いが起こり、春日局が江戸幕府初代将軍・徳川家康に直訴して世継ぎに決まりました。1623年(元和9年)に父・秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、将軍になりました。徳川家光は武家諸法度・参勤交代制などの諸制度を整備し、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行い、幕府の基礎を確立しました。また神社仏閣に寄進も行いました。
【起源・由来|清水の舞台】
清水の舞台がいつ頃から建てられるようになったかは明確ではありません。清水の舞台は平安時代(794年~1185年)後期の1,100年頃に初めて建てられたとも言われています。平安時代後期の公卿(くぎょう)で、蹴聖(しゅうせい)とも言われた藤原成通(ふじわらのなりみち)が清水の舞台の欄干(らんかん)で、蹴鞠(けまり)をしながら一往復したことが「成通卿口伝日記(なりみちきょうくでんにっき)」に記され、これが清水の舞台の文献上の初見と言われています。
●藤原成通は人柄が優美で明朗、詩歌・笛・今様などに秀で、法令・風俗などの有職故実(ゆうそくこじつ)に通じていました。また馬・早業などにも優れ、特に蹴鞠は名人として「蹴聖」と賞賛されました。蹴鞠庭に7千日立ち、その内の2千日は連日蹴り続けました。また1千日は休まずに蹴鞠をする千日行を達成しました。なお蹴鞠は中国・戦国時代の蹴鞠(しゅうきく)が起源と言われ、日本には飛鳥時代(538年頃)に仏教とともに伝わったと言われています。
【高さ・大きさ|清水の舞台】
清水の舞台は高さ約13メートルで、大きさ(広さ)正面約18メートル・側面約10メートルです。高さは4階建てのビルに匹敵し、大きさは畳約100畳(床面積約190平方メートル)です。清水の舞台には410枚以上のヒノキの床板が敷き詰められています。床板には長さ約5.5メートル・幅約30~60センチ、厚さ約10センチのものが使われています。なお清水の舞台の両端には翼廊(楽舎)があります。
●本堂は棟高18メートルで、正面約36メートル・側面約30メートルです。
●本堂・清水の舞台では1964年(昭和39年)~1967年(昭和42年)に屋根の葺き替え・床板の張り替えを中心とする大規模修理が行われ、京都府の技術職員が詳細な調査を行って精密な図面が初めて作成されました。その後2017年(平成29年)1月~2020年(令和2年)2月に「平成の大修理」が行われ、同年12月3日に奉告法要が行われました。床板166枚が木曽ヒノキ(檜)で張り替えられ、高欄(こうらん)に吉野ヒノキが使われました。修理費は約20億円でした。
【構造・形式|清水の舞台】
清水の舞台は構造が舞台造で、懸造・懸崖造り(けんがいづくり)・崖造り(がけづくり)などとも言われています。清水の舞台は最長約12メートル・周囲約2メートルの柱など139本のケヤキ(欅)を釘を1本も使わない地獄止めにより、整然と組み上げられています。清水の舞台は18本のケヤキの柱が支え、縦横に何本もの貫(ぬき)と言われるケヤキの厚板が通され、柱と貫の内部が継ぎ手で接合され、僅かにできた隙間は楔(くさび)で締めて固定されています。格子状(こうしじょう)に組まれた清水の舞台は耐震性の高い構造になっています。なお清水の舞台は雨水が貯まらないように少し傾斜が付けられ、貫の上部にも小さな傘のようなものが取り付けられています。
●本堂は平安建築の様式を取り入れた寝殿造(しんでんづくり)の趣を今に伝え、屋根が寄棟造(よせむねづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
【「清水の舞台から飛び降りる」|清水の舞台】
清水の舞台は諺(ことわざ)の「清水の舞台から飛び降りる」で有名です。江戸時代中期・後期(1694年(元禄7年)~1864年(元治元年))には235件の投身(未遂を含む)があったと言われています。投身の中には12歳の若者や80歳の老人、そして2度飛び降りて2度とも助かった女性もいたと言われています。なお清水の舞台から飛び降りた理由は清水の観音さまに祈って飛び降りると命が助かり、願いも叶うということ、また運悪く亡くなったとしても観音さまの補陀落浄土(ふだらくじょうど)で、成仏(じょうぶつ)するといった願掛け・迷信によるものと言われています。
●投身は記録に残されているものが全体で237件あったと言われています。ただ明治時代に京都府から飛び降り禁止令が出され、事態は収束したそうです。
●江戸時代中期に浮世絵師・鈴木春信(すずきはるのぶ)が傘を両手に女性が宙を舞う「清水舞台より飛ぶ女」を描きました。江戸時代後期に十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)が「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」の中で、弥次(やじ)さん・喜多(きた)さんが清水寺の僧侶から「観音さまに願をかけて舞台より飛び降りる人がいるがけがをしない」と説明されたことが記されています。
【植林・植樹|清水の舞台】
清水の舞台には樹齢300年から400年と言われるケヤキなどが使われている為、2000年(平成12年)から京都府の花背(はなせ・京都市左京区)・京北町・舞鶴市の山林で、ケヤキ数千本の植林が行われています。花背には約6,000本のケヤキが植林されているそうです。なお清水寺ではケヤキ以外にもヒノキ数万本の植林も行っています。
●ケヤキは耐用年数が約800年とも言われています。ただ腐食や虫食いに見舞われることがあり、清水寺では傷んだ部分だけを切り取り、新しい木材を継ぎ足す根継ぎで補修しています。
【清水の舞台|清水寺見所 備考】
清水の舞台は英語で「Kiyomizu stage」と表され、日本人だけでなく、海外から大勢の外国人観光客が訪れる清水寺最大の見所です。
*参考・・・清水寺(見どころ・歴史・清水の舞台・・・)ホームページ

















