金閣|足利義満・金箔・放火事件などを解説|金閣寺見所

金閣寺見どころ(Kinkaku-ji Temple)

金閣完全ガイド|足利義満・金箔・金額・放火事件などを解説

金閣は銀閣とともに京の三閣に数えられて有名です。金閣は1398年(応永5年)に室町幕府3代将軍・足利義満が建て、国宝に指定されたが、1950年(昭和25年)に金閣寺放火事件で焼失し、1955年(昭和30年)に再建されました。なお北山(ほくざん)鹿苑寺(ろくおんじ)は金閣が有名な為、一般的に金閣寺と言われています。(詳細下記参照)

金閣寺見どころ(金閣・不動堂など)

【概要・概略|金閣(舎利殿)】

金閣は一層に釈迦三尊(しゃかさんぞん)、三層に仏教の開祖・お釈迦さま(おしゃかさま)の遺骨である仏舎利(ぶっしゃり)を納める舎利殿(しゃりでん)として創建されました。金閣は池泉回遊式庭園の中心である鏡湖池(きょうこち)南側の畔に建立されています。金閣は木造三階建てで、一階は金箔が張られずに素木仕上げ、二階は外面が金箔張り、三階は外面・内部(床除く)が金箔張りです。一階に宝冠釈迦如来像(ほうかんしゃかにょらい)・足利義満(あしかがよしみつ)像、二階は岩屋観音(いわやかんのん)像・四天王(してんのう)像を安置しています。
●お釈迦さまは約2,500年前、ネパールのルンビニーの花園で、シャカ族の国王である浄飯王(シュッドーダナ)と摩耶夫人(マーヤー)の間に生まれました。29歳で出家し、35歳の時に明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡ってインド各地を回って布教し、クシナーラで亡くなりました。遺骸は火葬され、遺骨は各地の饅頭形(半球形)のストゥーパに分けて祀られました。ストゥーパはインドから中国に伝わると高層の楼閣建築形式になり、日本に伝わって五重塔などが建立されるようになりました。お釈迦さまが悟りを開いて最初に説法した鹿野苑(サールナート)は金閣寺の正式名称(寺号)「鹿苑寺」、足利義満の法号「鹿苑院天山道義」の由来になっています。

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【歴史・時代|金閣(舎利殿)】

金閣は1398年(応永5年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が山荘「北山殿(きたやまどの)」内に建てました。その後応仁の乱に見舞われたが、金閣・石不動堂・護摩堂などは焼失を免れました。1929年(昭和4年)に国宝保存法によって国宝に指定されたが、1950年(昭和25年)の放火で足利義満坐像(国宝)などとともに焼失しました。その後政府などの補助金や寄付金などにより、明治時代の解体・修理の際に作成された図面・写真などの資料に基づき、1955年(昭和30年)に再建され、同年10月10日に落慶法要が営まれました。
●足利義満は1358年(正平13年・延文3年)に室町幕府2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)の子として生まれました。1367年(正平22年・貞治6年)に父が亡くなると家督を継ぎ、1369年(正平24年・応安2年)に征夷大将軍宣下を受けました。1382年(弘和2年・永徳2年)に相国寺の建立を開始しました。1392年(元中9年・明徳3年)に南北朝の合一を果たし、1394年(応永元年)に将軍職を子・足利義持に譲り、1395年(応永2年)に出家し、その後も実権を手放さずに政務を執りました。1397年(応永4年)から山荘「北山殿」を整備し、政治の中枢を集約し、北山文化を開花させました。なお足利義満は1408年(応永15年)に亡くなりました。

【仏舎利(お釈迦さまの遺骨)|金閣(舎利殿)】

金閣は三階に仏舎利が納められました。足利義満は「東寺百合文書(足利義満自筆仏舎利奉請状)」に「愚老」と記され、1406年(応永13年)9月10日に東寺に出向き、御影堂の弘法大師絵像などの寺宝を拝観し、その後宝蔵に安置されていた舎利壺を出させ、勅封を解いて仏舎利(大師請来仏舎利)8粒を貰い受け、同席した御賀麿(御賀丸)・満済僧正・澄豪僧都・道祐・常忠・隆禅法印・栄暁僧都などに10粒を分与し、封を加えた記録が残されています。なお仏舎利は真言宗の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が中国長安・青竜寺(せいりゅうじ)の恵果(えか)から直接授けられ、80粒を日本に持ち帰ったと言われています。
●弘法大師・空海は佐伯直田公の子として生まれました。母方の叔父・阿刀大足に論語・孝経などを学び、792年(延暦11年)に大学寮に入って学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、東大寺別当・勤操に南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として中国に渡り、中国長安で青竜寺の恵果に密教を学び、伝法阿闍梨位の灌頂を受けました。806年(大同元年)に帰国して真言密教を日本に伝えて、真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)に高野山で亡くなりました。

【構造・形式|金閣(舎利殿)】

金閣は木造三階建て(二重三階)の楼閣(ろうかく)建築で、一階が蔀戸を用いた寝殿造り(しんでんづくり)、二階が舞良戸・格子窓・長押を用いた書院造り(しょいんづくり)、三階が桟唐戸・花頭窓を用いた禅宗様(ぜんしゅうよう・唐様(からよう))です。住宅と仏堂の様式を併用・統合した建物です。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)のこけら葺き(ぶき)です。一階と二階が同じ大きさで、三階は一回り小さくなっています。ただ一階西側には鏡湖池に張り出して、船着場である「漱清(そうせい・釣殿(つりどの))」と称する方一間で、切妻造(きりづまづくり)の吹き放しの小亭が付属しています。なお金閣は一階が法水院(ほうすいいん)、二階が潮音洞(ちょうおんどう)、三階が究竟頂(くっきょうちょう)と言われ、第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)筆の「究竟頂」の額が残されています。
●屋根には室町時代に造られた銅製の鳳凰(ほうおう)が南向きに取り付けられていたが、明治時代の解体・修理の際に尾が破損し、取り外されていました。その為後小松天皇筆の「究竟頂」の額とともに放火による焼失を免れました。

【金箔・修復|金閣(舎利殿)】

金閣は二階の外面が金箔張り、三階の外面・内部(床除く)が金箔張りです。(高欄を含む)金閣は1955年(昭和30年)に再建された際、二階・三階に10センチ角の金箔が10万枚(2キロ)使用されました。その後1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)までの昭和大修復の際、通常の金箔の5倍の厚さがある五倍箔が20万枚(20キロ)使用されました。昭和大修復の際には金箔の貼り替えや下地の漆の塗り替えだけでなく、天井画の復元なども行われ、約7億4千万円の費用が掛りました。2003年(平成15年)に金箔の貼り替えなどが行われました。なお2020年(令和2年)に屋根の葺き替えが行われ、サワラの薄板約10万枚が交換されました。また同時に縦横約10センチの金箔約1万枚を使って屋根の上の鳳凰や軒下なども補修されました。
●放火で焼失した金閣は三階のみに金箔が残り、二階には金箔が残っていなかった。しかし明治時代の解体・修理の際、使用されなかった部材に金箔が残っていたことから二階の外面に金箔が張られたそうです。

【名前・名称|金閣(舎利殿)】

金閣は1398年(応永5年)に建てられ、舎利殿・重々殿閣・三重殿閣などと言われていました。金閣と言われるようになったのは1484年(文明16年)以降のことです。1484年(文明16年)に金閣を建てた足利義満の孫で、銀閣を建てる室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が金閣寺を訪れ、「蔭凉軒日録(おんりょうけんにちろく)」に「金閣」と記されているのが初例と言われています。「蔭凉軒日録」は蔭凉軒の歴代軒主の日記です。
●蔭凉軒は相国寺の塔頭・鹿苑院の南坊にあった寮舎です。足利義満は禅宗寺院の人事・行政を総轄する僧録を置き、鹿苑院に住まわせ、その後室町幕府4代将軍・足利義持が蔭凉軒を創設したと言われています。1425年(応永32年)に相国寺とともに焼失し、1439年(永享11年)に室町幕府6代将軍・足利義教が再建しました。1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱で再び焼失し、その後再建されることはありませんでした。蔭涼軒は軒主が将軍で、留守職は近侍の禅僧が勤めました。留守職は鹿苑僧録司に属し、将軍と鹿苑僧録司の間にあり、伝達・披露などの役割を担いました。1435年(永享7年)に足利義教から信任された季瓊真蘂が留守職になると蔭涼軒主を僭称し、僧事全般の担うと鹿苑僧録司を凌ぐようになりました。

【金閣寺放火事件|金閣(舎利殿)】

金閣寺放火事件は1950年(昭和25年)7月2日未明に京都府舞鶴市出身の21歳の学僧によって起こりました。学僧は放火後に自殺を図ったが、一命を取り留めました。ただ学僧の母は事情聴取の為に京都市に呼ばれ、その帰りに保津峡で自殺しました。学僧は取調べで動機を「世間を騒がせたかった」・「社会への復讐のため」・「金閣の優美さをのろい、反感をおさえきれなかった」などと供述し、懲役7年の判決を受けて服役しました。服役中に結核・統合失調症が進行し、京都市の病院に入院したが、1956年(昭和31年)3月7日に26歳で病死しました。
●金閣寺放火事件や学僧の母親の投身自殺は社会に衝撃を与え、作家・三島由紀夫(みしまゆきお)の「金閣寺」や作家・水上勉(みずかみつとむ)の「五番町夕霧楼(ごばんちょうゆうぎりろう)」・「金閣炎上」の題材になりました。「金閣炎上」はノンフィクションです。

【金閣|金閣寺見所 備考】
金閣と銀閣の違いは金閣が華やかな北山文化、銀閣が「わび・さび」に重きを置いた東山文化を代表する建物であることです。
*参考・・・金閣寺(見どころ・歴史・金閣・・・)ホームページ

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