銀閣寺見所ランキング|銀閣など人気スポット解説

銀閣寺見どころ(Ginkaku-ji Temple)

銀閣寺見所ランキング|銀閣・庭園・東求堂などの解説

銀閣寺は世界遺産で、京都を代表する人気の観光名所です。このページでは観光や修学旅行で銀閣寺を訪れた際に絶対に見るべき銀閣・庭園・東求堂などの魅力・歴史・構造・由来などを丁寧にまとめて解説します。見所ランキングは1位が銀閣、2位が庭園、3位が東求堂、番外が銀沙灘・向月台です。(詳細下記参照)

銀閣寺見どころ一覧

【銀閣(国宝)の見所紹介|足利義政創建】

銀閣は室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が建て、500年以上の歴史を誇り、東山文化を象徴する建物として国宝に指定されて歴史的価値があります。銀閣寺の象徴である銀閣は金閣寺の金閣・西本願寺の飛雲閣(ひうんかく)とともに京の三閣と言われ、京都を代表する名建築で、人気の観光スポットです。銀閣は外壁の黒漆(くろうるし)が日光に照らされて銀色に輝いて見えることが名称の由来になった説があり、銀色に輝くかを確認しながら拝観するのがおすすめです。また銀閣は池泉回遊式庭園とのコラボが美しいとされ、庭園と一緒に拝観するのもおすすめです。コラボは写真映え必至。
●銀閣は1489年(長享3年)に足利義政が東山山荘(東山殿)内で最後に建てました。ただ完成を見ることなく亡くなりました。足利義政は祖父・足利義満(あしかがよしみつ)が建てた金閣の二階・三階や苔寺(こけでら・西芳寺(さいほうじ))の瑠璃殿(るりでん)を参考に建てたと言われています。足利義政は1485年(文明17年)など度々金閣寺を訪れた記録が残されています。銀閣・金閣から足利将軍家では邸内に楼閣建築を設けるしきたりがあったとも考えられ、興味深い説になっています。1550年(天文19年)の室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と三好長慶(みよしながよし)の兵火で東山山荘の建物の多くが焼失したが、東求堂とともに焼失を免れました。その後江戸時代に数度改修され、1913年(大正2年)に大規模な解体修理が行われました。なお銀閣は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●銀閣は一階が住宅風様式、二階が禅宗様式(唐様(からよう))の二階建てで、一階が心空殿(しんくうでん)、二階が潮音閣(ちょうおんかく)と言われています。一階に板敷の仏間・六畳間・板敷の小室・吹き放しなどがあり、二階に内部の仕切りのない板敷の十六畳間があります。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)のこけら葺(こけらぶき)で、美しい鳳凰が飾られています。
●銀閣は観音菩薩を祀る観音殿(かんのんでん)で、二階に洞中観音(どうちゅうかんのん)と言われる観音菩薩(かんのんぼさつ)坐像を安置しています。観音菩薩は人々の救いを求める声を聞き、その苦悩から救済すると言われています。
●銀閣が金閣に対し、銀閣と言われるようになったのは江戸時代以降というのが豆知識です。1658年(万治元年)刊行の「洛陽名所集(らくようめいしょしゅう)」に「銀閣寺」と記されているのが文献上の初例です。銀閣が銀閣と言われようになった理由には当初外壁に銀箔を貼る予定だったが、財政難や足利義政の死によってできなかった説、外壁の黒漆が日光に照らされて銀色に輝いて見えた説などがあります。
●銀閣は2007年(平成19年)に行われた科学的調査により、外壁に一度も銀箔が張られていなかったことが分かりしました。また外壁・内壁に黒漆(くろうるし)、軒(のき)まわりの部材に色鮮やかな彩色文様があったことも分かりました。その後の修復工事では二階の内部に黒漆が塗られたが、外壁は現在の外観を維持することが基本とされました。

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【庭園(特別名勝・特別史跡)の見所紹介|足利義政作庭】

庭園は足利義政が自らが苔寺(西芳寺)の庭園を模して作庭したと言われ、特別名勝・特別史跡に指定されて歴史的価値があります。庭園は足利義政が作庭した庭園の中で唯一現在に残されている貴重な遺構で、人気の観光スポットです。庭園は北・東・南側の三方を山に囲まれ、錦鏡池を中心とする池泉回遊式の名園です。庭園は足利義政の浄土信仰(じょうどしんこう)・蓬莱神仙思想(ほうらいしんせんしそう)が表現されているとも言われ、作庭の意図を考えるのも面白いかもしれません。銀閣寺の美の象徴である庭園は錦鏡池(きんきょうち)近くの銀閣とコラボが美しいと言われ、銀閣と一緒に眺めるのがおすすめです。また錦鏡池や名石・石橋に焦点を合わせて拝観するのもおすすめです。庭園には白鶴島(はっかくとう)があり、守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)が献上したと言われる大内石・座禅石(ざぜんいし)などの名石や仙桂橋(せんけいきょう)・仙袖橋(せんしゅうきょう)などの石橋が配され、庭園のアクセントになっています。
●庭園は室町時代(1336年~1573年)中期に足利義政が女人禁制で、夢窓疎石(むそうそせき)が作庭した苔寺の庭園を母・日野重子(ひのしげこ)に見せる為、苔寺の庭園を模して作庭したとも言われています。足利義政は東山山荘(東山殿)に住して自ら指揮し、様々な場所から庭石・植木などを取り寄せたと言われています。また作庭には足利義政が信頼・庇護していた河原者(かわらもの)・善阿弥(ぜんあみ)が関わったとも言われています。庭園は漱蘚亭(そうせんてい)跡にあった枯山水庭園と上下二段の庭園だったと言われています。その後1550年(天文19年)の足利義昭と三好長慶の兵火で荒廃したと言われています。また織田信長(おだのぶなが)が足利義昭の為に二条城を築城した際、名石の九山八海石(くせんはっかいせき)が移されました。室町時代末期(戦国時代)の政情が影響されています。1615年(慶長20年)に宮城丹波守豊盛(みやぎたんごのかみとよもり)が大改修し、現在の姿の起源になりました。禅宗寺院らしく、禅宗風の趣を取り入れて修復が行われたと言われています。なお庭園は1952年(昭和27年)3月29日に国の特別史跡・特別名勝に指定されました。

【東求堂(国宝)の見所紹介|足利義政創建】

東求堂は足利義政が銀閣よりも先に建て、500年以上の歴史を誇り、国宝に指定されて歴史的価値があります。東求堂は平屋(一階建て)であることなどから銀閣に比べると目立たず、見逃したり、印象に残らなかったりします。ただ足利義政が持仏堂(じぶつどう)だけでなく、書斎として使ったことから見逃せない観光スポットです。例年春と秋に「東山文化の原点 国宝東求堂」として特別公開を行っており、足利義政を偲びながら拝観するのがおすすめです。
●東求堂は1486年(文明18年)に足利義政が銀閣よりも先に建てました。その後1550年(天文19年)の足利義昭と三好長慶の兵火でも銀閣とともに焼失を免れました。かつて銀閣近くで、現在の向月台がある場所に建立されていたが、その後現在の場所に移されたと言われています。なお東求堂は1903年(明治36年)4月15日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●東求堂は入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。1964年(昭和39年)に解体修理が行われ、こけら葺から檜皮葺に葺き替えられました。東求堂には四畳半の同仁斎(どうじんさい)・仏間・四畳間(脇の間)・六畳間(控室)などがあります。同仁斎には机である付書院(つけしょいん)と物を収納する違棚(ちがいだな)があり、日本最古の書院造(しょいんづくり)と言われ、建築史的に極めて重要です。
●東求堂は阿弥陀如来(あみだにょらい)を祀る阿弥陀堂で、阿弥陀如来(あみだにょらい)立像と法体の足利義政像を安置しています。足利義政像は1485年(文明17年)に足利義政が出家した頃の姿を写実的に表現していると言われ、貴重な資料です。
●東求堂・同仁斎の名称は相国寺79世・横川景三(おうせんけいさん)が撰し、足利義政が選んだ「東方の人、念仏して西方に生ずるを求む(六祖壇経)」・「聖人は一視して同仁(韓愈)」に由来しています。横川景三は足利義政の相談相手で、東求堂・同仁斎は人間関係を知ることができる貴重は資料です。
●東求堂は大文字の送り火の起源になった説があり、好奇心を刺激されます。1489年(長享3年)の近江の合戦中に足利義政の長子で、室町幕府9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が24歳で亡くなりました。新盆に足利義尚の菩提を弔う為、銀閣寺東側の如意ヶ岳(にょいがたけ)に「大」の文字を象って一斉に松割木に点火し、足利義尚の精霊を送りました。なお横川景三は東求堂から山面を望み、「大」の字形を定め、火床を掘らせたとも言われています。

【銀沙灘・向月台の見所紹介|砂の芸術作品】

銀沙灘(ぎんしゃだん)・向月台(こうげつだい)はいつ造られたかは明確ではなく、ミステリーが残されています。銀沙灘・向月台は方丈(本堂)前にある砂の芸術作品で、写真映えする人気の観光スポットです。銀沙灘は砂を波形に高さ約35~40センチに盛り上げたものです。向月台は砂を高さ約1.8メートル・頂部約1.2メートル・底部約3メートルの富士山型(円錐(えんすい)型)に積み上げたものです。銀沙灘・向月台は月の光を反射させる為に造られたとも言われています。また銀沙灘は中国・杭州(こうしゅう)の世界遺産である西湖(せいこ)のさざ波をモデルにしているとも言われています。向月台は東山に昇る月を上に座って待っていたとも言われています。足利義政は「わが庵は 月待山の麓にて 傾むく空の 影をしぞ思う」と詠み、お月見(観月)を楽しんだと言われ、銀沙灘・向月台はその伝統を受け継いでいるのかもしれません。銀沙灘・向月台は原則1ヶ月に1度、庭師が整形し、毎日早朝にも整備し、造形美を維持しています。
●銀沙灘・向月台は室町時代(1336年~1573年)まで遡ることはできないが、安土桃山時代(1573年~1603年)以前から造られ、江戸時代(1603年~1868年)の修復の際に拡大したとも言われています。また銀沙灘・向月台は江戸時代に造られるようになったとも言われています。

【銀閣寺見所ランキング完全ガイド 備考】
*参考・・・銀閣寺(見所・アクセス・・・)ホームページ

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