千手観音(本尊・千体仏・千手の手・・・)三十三間堂見どころ

千手観音(本尊・千体仏・千手の手・・・)
千手観音を解説します。千手観音には本尊・千手観音坐像と1,001体の千手観音立像があります。千手観音坐像は鎌倉時代に大仏師・湛慶が造仏しました。1,001体の千手観音立像は平安時代から室町時代に造仏されました。(詳細下記参照)
【千手観音の概要・概略】
- 概要・概略:千手観音は三十三間堂(本堂)のハイライトです。千手観音坐像(本尊)は国宝で、三十三間堂(本堂)の中央に安置されています。千手観音立像は国宝で、本尊の左右にある10段の階段状の仏壇にそれぞれに50体、合計1,000体が安置され、本尊の背後にも1体が安置されています。つまり千手観音立像は本尊の周りに1,001体が安置されています。(千手観音立像は東京国立博物館に3体、京都・奈良の国立博物館に各1体が寄託されています。)
- 千体仏:本尊の左右に安置されている合計1,000体の千手観音立像は千体仏とも言われています。千体仏は平安時代にはたくさん造仏されたとも言われています。平安時代には仏像を多く造仏するほどたくさんの功徳や慈悲が与えられるという考えが広まっており、仏像がたくさん造仏されたと言われています。
【千手観音の歴史・時代】
- 歴史・時代:千手観音坐像は鎌倉時代中期の1251年(建長3年)から造仏が開始され、1254年(建長6年)に大仏師・湛慶(たんけい)が82歳の時に完成しました。ちなみに湛慶は84歳で亡くなりました。1,001体の千手観音立像は平安時代から室町時代に造仏されました。平安時代に造仏された124体の千手観音立像には銘がなく、造仏した仏師は不明です。その後鎌倉時代に16年掛けて造仏された876体の内の約500体には銘があり、湛慶などの慶派(康円・行快)、院恵などの院派(院継・院遍・院承・院豪・院賀)、隆円などの円派(昌円・栄円・勢円)など約150人の仏師が一緒に造仏したことが分かります。なお1体の千手観音立像は室町時代に造仏されました。
- 仏師:千手観音坐像の台座心棒には湛慶以外にも法眼康円(ほうがんこうえん)・法眼康清(ほうがんこうせい)の名前が墨書で書かれ、湛慶が弟子と一緒に完成させたことが分かります。
- 湛慶:湛慶は1173年(承安3年)に七条仏所の総帥である慶派仏師・運慶(うんけい)の長男として生まれました。祖父・康慶(こうけい)や父が参加した奈良・東大寺再興に加わり、1212年(建暦3年)に最高の僧綱位(そうごうい)である法印(ほういん)に叙せられ、1224年(貞応2年)に父が亡くなると七条仏所を率いました。父のような豪快さに欠けるが、優雅な作風や宋朝様式を取り入れ、洗練された温和な表現を得意としました。湛慶の作品には高知市・雪蹊寺(せっけいじ)の木造毘沙門天及び両脇侍立像(重要文化財)、京都市・高山寺(こうざんじ)の木造善妙神立像・白光神立像(重要文化財)などがあります。
【本尊・千手観音坐像】
- 概要・概略:本尊・千手観音坐像(国宝)は高さ約3.3メートル(丈六)で、台座など含めると高さは7メートルを超えます。千手観音坐像はヒノキ(檜)の寄木造り(よせぎづくり)で、漆箔が施されています。千手観音坐像は全体の均整が保たれ、尊顔は温雅な表情で、観音菩薩の慈徳が表現されています。湛慶の特徴的作風が表れていると言われています。
- 42手:千手観音の造仏では42手が一般的です。本尊・千手観音坐像の手は42手あり、胸前で2手が合掌し、腹前で2手が宝鉢(ほうはつ)を持ち、残りの38手は法輪(ほうりん)・錫杖(しゃくじょう)・水瓶(すいびょう)などを持っています。
【1,001体の千手観音立像】
- 概要・概略:1,001体の千手観音立像(国宝)は高さ1.6メートル前後です。1,001体の内、9体は湛慶が造仏し、最前列に安置されています。千手観音立像は寄木造、または割矧ぎ造です。千手観音立像は頭部に11の顔があり、手は42手で、胸前で2手が合掌しています。なお本尊の背後の千手観音立像は「行像尊」と言われています。
- 似た像:1,000体の千手観音立像には必ず会いたい人に似た像があるとも言われています。1,000体の千手観音立像は千体仏とも言われ、仏像の森とも称されています。なお1001体の千手観音立像には「第一尊」・「尊宿尊」・「法眼尊」・「智行尊」・「無事尊」など一体一体に名前が付けられています。
- 豆知識:1,001体の千手観音立像は1973年(昭和48年)から美術院国宝修理所で修復が開始され、2017年(平成29年)に45年にわたる修復が完了しました。2018年(平成30年)に国の文化審議会が国宝指定を答申したことを記念し、東京国立博物館などに寄託されていた5体が里帰りし、26年振りに1,001体が揃いしました。
- 検索システム:三十三間堂にはタッチパネル式の検索システムがあります。配置図から気になる1体を選ぶと仏像の写真(全身・上半身)や名前の由来などを確認できます。1973年(昭和48年)から修復の際に撮影した記録用の写真が活用されています。
【千手観音の千手の手】
- 千手の手:千手観音は六観音の一尊で、千手の手はいかなる衆生をあまねく救済するという慈悲と力の大きさを表していると言われています。六観音は千手観音と聖観音(しょうかんのん)・十一面観音(じゅういちめんかんのん)・馬頭観音(ばとうかんのん)・如意輪観音(にょいりんかんのん)・准胝観音(じゅんでいかんのん)または不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)です。
- 仏名:千手観音は千手千眼観音(せんじゅせんげんかんのん)とも言われ、千の慈悲の眼と千の慈悲の手を備えています。千の慈悲の眼と千の慈悲の手は慈悲と救済が無量無辺であることを表わしています。なお千手観音は千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)とも言われています。
【千手観音を安置する蓮華王院本堂】
- 蓮華王院本堂:千手観音坐像・千手観音立像を安置している蓮華王院本堂(三十三間堂)は平安時代後期の1165年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛に資材協力を命じて創建したが、鎌倉時代中期の1249年(建長元年)に火災によって焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が再建されました。
- 三十三:三十三間堂の「三十三」は観音菩薩に縁のある数字で、「法華経」などでは観音菩薩が三十三の姿に変じ、衆生を救うと説かれています。
【千手観音を安置する兵庫朝光寺】
- 兵庫朝光寺:兵庫加東市・朝光寺(ちょうこうじ)の2体の本尊・千手観音菩薩立像の内、1体は三十三間堂の千手観音と同形式で、三十三間堂から移されたとも言われています。
- 歴史時代:朝光寺は寺伝によると651年(白雉2年)に天竺(インド)から紫の雲に乗って日本に飛来したと言われている渡来僧・法道仙人(ほうどうせんにん)が権現山に開基したのが起源と言われています。その後1413年(応永20年)に本堂が再建され、三十三間堂から移された千手観音菩薩立像が安置されたと言われています。
【千手観音 備考】
*参考・・・三十三間堂(見どころ・歴史・千手観音・・・)ホームページ