三十三間堂通し矢2025年1月12日(日程時間)全国弓道大的大会
三十三間堂通し矢
三十三間堂通し矢(日程時間・・・)を紹介しています。通し矢は例年1月15日に近い日曜日に行われています。通し矢では20歳男女の弓道有段者や称号者が約60メートル先の大的を射って腕を競います。大的は20歳男女が1メートル、称号者が79センチです。ただ決勝では20歳男女が79センチ、称号者が50センチと小さくなります。(詳細下記参照)
【三十三間堂通し矢2025 日程時間(要確認)】
三十三間堂通し矢2025は2025年(令和7年)1月12日(日曜日)に行われます。(現在確認中・要注意)
●過去のタイムテーブルは7:45から開会式、8:00から矢渡、8:30から20歳男子、10:50から20歳女子、13:50から称号者、15:00から決勝でした。(変更の場合あり)
*参考・・・三十三間堂ホームページ
【三十三間堂通し矢 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
最寄り駅・バス停・・・博物館・三十三間堂前(徒歩すぐ)、東山七条(徒歩すぐ)
アクセス路線は次の通りです。(最終更新2014年末・変更の場合あり)
*京都駅から三十三間堂は100系統(D1乗り場)、110系統(D1乗り場)、206系統(D2乗り場)、208系統(D2乗り場)
*四条河原町からは207系統
*四条烏丸からは207系統
*河原町丸太町からは202系統
路線・時刻表・運賃チェック
*京阪電鉄本線の場合、最寄り駅は七条駅(徒歩約5分)
【三十三間堂通し矢 場所取り】
三十三間堂通し矢の写真撮影は無料開放されたり、場所が限られたりしていることから難しくなります。時間帯によっては満員電車並みの人出で、写真撮影できる前列に行くのもままならないこともあります。また場所取りでトラブルになることもあります。写真撮影される方はできるだけ早い時間帯に場所取りすることをおすすめします。特に絵になる20歳女子はかなりの人出が予想されます。なお距離などから撮影対象が確認できなかったということにならないように時間帯や服装(色など)も事前に確認することが重要です。(撮影禁止になっている場合もあります。)
通し矢では時間により、拝観口(拝観時間9:00~16:00)だけでなく、拝観口西側の西門から入れないかを確認することも重要です。
【三十三間堂通し矢 歴史・簡単概要】
三十三間堂通し矢(とおしや)・全国弓道大的大会(おおまとたいかい)は江戸時代に各藩の弓術家が本堂の軒下で矢を射った大矢数(おおやかず)に因んだ行事です。大矢数は一昼夜に何本射通したかを競ったものだそうです。なお新成人による通し矢は1951年(昭和26年)から行われています。
通し矢では約120メートルある本堂の西側に射場が設置されます。通し矢では20歳男女の弓道有段者や称号者が約60メートル先の大的を射って腕を競います。最初の予選では20歳男女が1メートル、称号者が79センチの大的を射ます。予選では12人が4つの大的に対し、約2分間に2本の矢を射ます。予選で2本の矢が全て大的に的中した皆中者で決勝が行われます。決勝では20歳男女が79センチ、称号者が50センチの大的を射ます。
三十三間堂では通し矢同日に楊枝のお加持(やなぎのおかじ)も行われています。楊枝のお加持では聖樹とされる楊枝で、本尊・千手観音坐像前で7日間祈祷した法水を参拝者に注ぎ、諸病を除きます。
三十三間堂楊枝のお加持
通し矢は確証はなく、伝説の域を出ないそうだが、1156年(保元元年)頃に熊野・蕪坂源太(かぶさかげんた)が三十三間堂で行ったのが起源とも言われているそうです。蕪坂源太は狩りを職業とし、二町(約218メートル)先を走る鹿さえも外さなかったとも言われているそうです。なお通し矢の記録が明確に残っているのは1651年(慶安4年)に出された「年代矢数帳」に記されている1606年(慶長11年)の朝岡平兵衛(あさおかへいべえ)の記録が最初だそうです。
本堂(国宝)は1266年(文永3年)に再建されました。本堂は本尊・千手観音坐像(国宝)や1,001体の千手観音立像(国宝)などを安置しています。本堂は内陣の柱間が33あることから三十三間堂と言われています。なお本堂は全長約121.7メートル、高さ約4.5~約5.3メートル、幅約2.36メートルです。
●三十三間堂の歴史(創建から現在)を紹介しています。
三十三間堂歴史(後白河天皇・後嵯峨天皇)
●三十三間堂の見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)を紹介しています。
三十三間堂見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)
【三十三間堂 歴史・簡単概要】
三十三間堂(蓮華王院本堂)は平安時代の988年(永延2年)に太政大臣・藤原為光が造営した私邸があった場所とも言われています。その後989年(永祚元年)に為光が妻と第65代・花山天皇の女御だった娘の菩提を弔う為に法住寺を創建したが、1032年(長元5年)の火災で焼失しました。1161年(永暦2年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が法住寺跡に離宮・法住寺殿を営み、三十三間堂は1165年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛に資材協力を命じ、離宮・法住寺殿の一画に創建されたのが起源です。ただ1249年(建長元年)に焼失し、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇)が本堂(三十三間堂)のみを再建しました。その後室町幕府第6代将軍・足利義教が修復し、関白・豊臣秀吉が東山大仏(方広寺)を建立した際、土塀や門などが整備されたと言われています。なお三十三間堂の名称は間面記法による表記「三十三間四面」に由来しています。三十三は観音に縁のある数字で、法華経などによると観音菩薩が三十三種の姿に変じ、衆生を救うと説かれています。
三十三間堂は天台宗・妙法院の境外仏堂です。
*参考・・・京都・三十三間堂(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
【三十三間堂通し矢 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
通し矢では拝観料が無料になります。
京都・三十三間堂(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報