三十三間堂の歴史は後白河上皇が蓮華王院仏堂を建立したのが起源
三十三間堂の時代別年表と重要人物
三十三間堂は1165年(長寛2年)に後白河上皇が平清盛に資材協力を命じ、職住兼備の院御所(離宮)・法住寺殿の一画に鎮守寺・蓮華王院仏堂を建立したのが起源です。五重塔・不動堂などの堂塔も建立されました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【院御所(離宮)・法住寺殿】
- 三十三間堂が建立されている場所は平安時代の988年(永延2年)に太政大臣(だいじょうだいじん)・藤原為光(ふじわらのためみつ)が造営した私邸があった場所とも言われています。
- 1156年(保元元年)に三十三間堂開基である第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)が方違い(かたたがい)の為に離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)を造営したと言われています。その後1160年(永暦元年)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が住し、蓮華王院(れんげおういん)御所とも言われました。なお後白河天皇は1155年(久寿2年)に即位したが、1158年(保元3年)に僅か3年で第78代・二条天皇(にじょうてんのう)に譲位し、院政を開始しました。三十三間堂の前身である院御所(離宮)・法住寺殿の歴史が始まりました。
- 1160年(永暦元年)に新熊野神社(いまくまのじんじゃ)・新日吉神宮(いまひえじんぐう)が離宮・法住寺殿の鎮守社として創建されました。
【三十三間堂の起源・始まり】
- 三十三間堂は1165年(長寛2年)1月30日(旧暦12月17日)に後白河上皇(第77代・後白河天皇)が平清盛(たいらのきよもり)に資材協力を命じ、院御所(離宮)・法住寺殿の一画に鎮守寺・蓮華王院仏堂を建立したのが起源です。五重塔・不動堂などの堂塔も建立されました。ちなみに蓮華王院の名称は頭痛持ちの後白河上皇が前世熊野の修行僧・蓮華坊で、その髑髏(どくろ・しゃれこうべ)が熊野・岩田川(いわたがわ)に沈み、髑髏を貫いて柳が生え、風に揺られた柳が髑髏に当たることが頭痛の原因になっているという夢告に由来していると言われています。髑髏は観音(かんのん)像の頭に納めて祀られ、柳は棟木(むなぎ)に使われたとも言われています。三十三間堂の寺院としての歴史が始まりました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 1183年(寿永2年)に木曽義仲(きそよしなか・源義仲 (みなもとのよしなか))が後白河法皇を襲撃する法住寺合戦が起こり、離宮・法住寺殿は焼失したが、三十三間堂は焼失を免れました。
- 平安時代に三十三間堂に安置されている千体仏の内、124体が造仏されました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 1190年(建久元年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が三十三間堂の修理を行ったと言われています。
- 1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御し、遺命によって三十三間堂で葬儀が行われました。後白河法皇が葬られている法住寺陵は三十三間堂の東側に位置しています。
- 1204年(元久元年)に第83代・土御門天皇(つちみかどてんのう)が後白河法皇の13回忌法要を行った際、浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が念仏三昧行である六時礼讃(ろくじらいさん)を修しました。
- 1249年(建長元年)に建長の大火によって三十三間堂が焼失しました。
- 1254年(建長6年)に仏師・湛慶(たんけい)が三十三間堂の本尊(中尊)・千手観音(せんじゅかんのん)坐像を造仏しました。
- 1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう))が現在の三十三間堂を再建しました。
- 鎌倉時代に三十三間堂に安置されている千体仏の内、876体が造仏されました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
- 南北朝時代に三十三間堂が洛陽三十三所観音霊場の第17番になりました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 1433年(永享5年)に室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が三十三間堂を修復し、1437年(永享9年)に参詣したと言われています。足利義教は仏門に入って天台座主(てんだいざす)になり、洛中の禅寺に修理の勧進を命じ、5年を掛けて屋根瓦を葺き替えたり、本尊(中尊)・千手観音坐像や千体仏を整備したりしました。
- 室町時代に三十三間堂に安置されている千体仏の内、1体が造仏されました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
- 1586年(天正14年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が方広寺(ほうこうじ・東山大仏)を創建した際、三十三間堂も方広寺の境内に取り込まれ、土塀や門などが整備されたと言われています。1595年(文禄4年)9月に大仏殿が完成し、千人の僧侶によって落慶供養が行われました。なお豊臣秀吉没後の1598年(慶長3年)に方広寺が妙法院(みょうほういん)に管理され、三十三間堂も妙法院に属することになりました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 1600年(慶長5年)に関白・豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の命により、千手観音(せんじゅかんのん)の修復が行われたと言われています。
- 1606年(慶長11年)に浅岡重間政が三十三間堂で通し矢を行い、「天下惣一」の称号を得たと言われています。その後も通し矢が行われた記録が残っています。
- 1650年(慶安3年)に現状の向拝が設けられました。
- 1798年(寛政10年)に落雷によって方広寺大仏殿が焼失し、仁王門・回廊など多くの伽藍も焼失したが、三十三間堂は類焼を免れました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 1895年(明治28年)に豊臣秀頼が建立した三十三間堂の西大門が東寺の南大門として移築されました。
- 1951年(昭和26年)に三十三間堂で通し矢(大的大会)が復活しました。
- 1973年(昭和48年)から千体仏が毎年15体~40体修復され、2017年(平成29年)に完了しました。
- 2018年(平成30年)に鎌倉時代の版画などから二十八部衆立像の位置が約80年振りに変更され、一部の像名も変更されました。
【三十三間堂の開基とされる第77代・後白河天皇】
第77代・後白河天皇は1127年(大治2年)に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)と中宮・藤原璋子の皇子として生まれました。1129年(大治4年)に曽祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)が崩御すると父・鳥羽上皇が院政を開始し、藤原得子を寵愛したことから第75代・崇徳天皇に譲位を迫り、1142年(永治元年)に父・鳥羽上皇と藤原得子の皇子・体仁親王(第76代・近衛天皇)が天皇に即位したが、1155年(久寿2年)に近衛天皇が崩御し、藤原得子の養子だった第77代・後白河天皇の皇子・子守仁親王(第78代・二条天皇) が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で第77代・後白河天皇に即位しました。後白河天皇は皇位継承がもとで起こった保元の乱で勝利したが、1158年(保元3年)に僅か3年で皇太子・子守仁親王 (第78代・二条天皇) に譲位し、二条天皇、第79代・六条天皇、第80代・高倉天皇、第81代・安徳天皇、第82代・後鳥羽天皇の5代・30余年にわたって院政を行いました。(停止・中断あり)また1169年(仁安4年)に離宮・法住寺殿で出家して法皇になりました。院政期間中に平治の乱・源平の合戦を経て、鎌倉幕府が成立しました。なお第77代・後白河天皇は1192年(建久3年)4月26日に崩御しました。
【三十三間堂 備考】
*参考・・・三十三間堂(歴史・見どころ・・・)ホームページ