藤森神社歴史-修学旅行・観光ポイント

藤森神社

藤森神社の時代別年表と重要人物

藤森神社歴史を簡単にマトメてポイント解説します。藤森神社は203年(神功皇后摂政3年)に神功皇后が三韓征伐から凱旋した際、山城国深草の里の藤森に纛旗を立て、兵具を納めて塚を造ったのが起源とも言われています。なお藤森神社歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(三韓征伐)】

★200年(仲哀天皇9年)に第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が崩御し、仲哀天皇の后・神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅(しらぎ)に出兵し、新羅を降伏させた後に三韓の残りである百済(くだり)・高句麗(こうくり)が相次いで日本の支配下に入ったとされています。(三韓征伐(さんかんせいばつ))なお199年(仲哀天皇8年)9月に仲哀天皇・神功皇后は熊襲(くまそ)討伐の為に儺県(ながあがた)の橿日宮(かしひのみや・香椎宮(かしいぐう))を訪れ、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けました。お告げでは熊襲よりも新羅を攻めよと言われたが、仲哀天皇は信じずに熊襲征伐を行うが、敗北し、翌200年(仲哀天皇9年)2月に橿日宮で崩御しました。神功皇后は神のお告げを聞かなかったためだと嘆いたと言われています。

【藤森神社創建(起源・由来)】

★藤森神社の本殿中央(中座)は社伝によると203年(神功皇后摂政3年)に第14代・仲哀天皇の后・神功皇后が三韓征伐から凱旋した際、山城国深草の里の藤森に纛旗(とうき)を立て、兵具を納めて塚を造ったのが起源と言われています。なお現在、藤森神社が建立されている場所には城南宮(じょうなんぐう)の摂社になっている真幡寸神社(まはたきじんじゃ)が祀られていました。真幡寸神社は神功皇后による三韓征伐の際、船上に立てた旗とともに神功皇后・大国主神(おおくにぬしのかみ・八千戈神(やちほこのかみ))の神霊を祀ったのが起源とも言われています。

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【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】

★藤森神社の本殿東殿(東座)は759年(天平宝字3年)に崇道尽敬皇帝(すどうじんきょうこうてい・舎人親王(とねりしんのう))を現在、伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)が建立されている藤尾の地(京都市伏見区深草藪之内町・稲荷山麓)に祀ったのが起源と言われています。当初、藤尾社と称していました。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★794年(延暦13年)に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)から弓兵政所(ゆずえまんどころ)の称が授けられ、遷都奉幣(ほうへい)の儀式が行われたとも言われています。(本殿中央(中座))
★藤森神社の本殿西殿(西座)は800年(延暦19年)に早良親王(さわらしんのう)を塚本の地((京都市東山区本町16丁目 ・東福寺近辺))に祀ったのが起源と言われています。当初、塚本社、塚本の宮とも言われていたそうです。826年(天長3年)に伊豫親王(いよしんのう)・井上内親王(いがみないしんのう)の二柱が合祀されました。(本殿西殿(西座))
★860年(貞観2年)に第56代・清和天皇(せいわてんのう)の宝祚に際し、奉幣の神事が行われました。これが藤森祭(ふじのもりまつり・深草祭(ふかくさまつり))の起源とも言われています。(本殿東殿(東座))

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★1438年(永享10年)に室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が第102代・後花園天皇(ごはなぞのてんのう)の勅により、伏見稲荷大社が稲荷山頂から藤尾に移しました。その為藤尾に祀られていた藤尾社が藤森神社の本殿東殿(東座)として祀られるようになりました。ちなみに現在、藤森神社が祀られている藤森に祀られていた真幡寸神社が現在、城南宮が祀られている場所に移されました。なお足利義教は1438年(永享10年)に大将軍社の社殿・八幡宮の本殿を本殿とともに一列に建立したと言われています。
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、塚本社(塚本の宮)が焼失し、1470年(文明2年)に藤森神社の本殿西殿(西座)として祀られるようになりました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★江戸時代に江戸幕府から200石の朱印領を与えたと言われています。
★1755年(宝暦5年)に藤森神社の本殿が御所の侍所仮殿(賢所(かしこどころ・内侍所(ないしどころ))として造営され、1767年(明和4年)に第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう)から下賜され、藤森神社に移されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★1984年(昭和59年)に藤森神社境内が藤森神社文化財環境保全地区に指定されました。

【神功皇后:藤森神社創建】

神功皇后は170年(成務天皇40年)に第9代・開化天皇の玄孫・息長宿禰王と天之日矛の子孫・葛城高ぬか媛の娘として生れました。193年(仲哀天皇2年)に第14代・仲哀天皇の皇后として立后され、その後仲哀天皇による九州・熊襲征伐に随伴し、200年(仲哀天皇9年)2月に仲哀天皇が崩御したが、その遺志を継ぎ、同年3月に熊襲を征伐したと言われています。また同年10月に三韓征伐によって新羅に出兵し、百済・高句麗も服属させました。三韓征伐中に月延石(鎮懐石)を当てて晒しを巻き、冷やすことによって出産を遅らせていたが、同年12月に第15代・応神天皇となる誉田別尊を産みました。翌201年(神功元年)に仲哀天皇の長男・次男であるかご坂皇子・忍熊皇子が叛乱を起こしたが、鎮圧して排除しました。神功皇后は皇太后摂政になり、誉田別尊を太子とし、誉田別尊が即位するまで約70年間政事を行ないました。なお神功皇后は269年(神功皇后69年)に亡くなりました。

【藤森神社歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・藤森神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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