金閣寺の歴史は足利義満が北山殿を造営したのが起源
金閣寺の時代別年表と重要人物
金閣寺は1397年(応永4年)に室町幕府3代将軍・足利義満が北山第を譲り受け、改築・新築で北山殿を造営したのが始まりです。1420年(応永27年)に義満の遺言により、北山殿が禅寺に改められ、金閣寺が創建されました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【金閣寺が建立されている場所】
- 金閣寺が建立されている場所は鎌倉時代前期に公卿(くぎょう)・西園寺公経(さいおんじきんつね)が尾張国松枝庄の所領との交換により、公卿・白川仲資王(しらかわなかすけおう)から手に入れた土地でした。1224年(元仁元年)に西園寺公経が山荘・北山第(きたやまてい)を造営し、氏寺・西園寺を創建したと言われています。北山第は小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)の撰者・藤原定家(ふじわらのていか)によると比類のない斬新さで、高さ四十五尺の滝と碧瑠璃(みどりるり)を湛えたように美しい池があったそうです。また地上の仙境(せんきょう)、此岸の浄土(しがんのじょうど)とも言われていたそうです。しかし南北朝時代の1335年(建武2年)に公卿・西園寺公宗(さいおんじきんむね)が鎌倉幕府滅亡後の北条氏と南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を暗殺しようとした謀反が発覚し、西園寺公宗は処刑され、西園寺氏の所領などは没収されました。
【御所・北山殿(北山第)の造営】
- 金閣寺の前身である御所・北山殿(きたやまどの)は1397年(応永4年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が河内の領地との交換により、山荘・北山第を譲り受けて、改築・新築によって北山殿を造営したのが始まりです。1398年(応永5年)に北山殿に舎利殿(しゃりでん・金閣)が建立され、1層目に釈迦三尊(しゃかさんぞん)が安置され、2層目は観音殿と言われ、3層目に仏舎利(ぶっしゃり)が納められました。北山殿(金閣寺)はその規模が御所に匹敵し、政治の中枢が全て集約され、足利義満が開花させた北山文化の象徴でした。なお足利義満は将軍時代に室町第・花の御所で政務を行っていたが、1394年(応永元年)に将軍職を9歳の嫡男である室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)に譲り、その後も北山殿(金閣寺)で政務を行いました。1395年(応永2年)には出家し、道義(どうぎ)と号しました。
- 1404年(応永11年)に北山殿(金閣寺)に高さ110メートル(360尺)とも言われる北山大塔(七重大塔)の造営を開始し、立柱の儀が行われたが、1416年(応永23年)に落雷で未完のまま焼失したとも言われています。なお足利義満は1399年(応永6年)に相国寺(しょうこくじ)に高さ110メートル(360尺)とも言われる七重大塔を建立したが、1403年(応永10年)に落雷で焼失し、翌1404年(応永11年)に北山殿に場所を移し、北山大塔の造営を開始しました。
- 1408年(応永15年)に第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)に北山殿(金閣寺)への行幸を仰ぎ、盛大な宴を開き、北山行幸と言われました。同年5月に足利義満が亡くなると嫡男・足利義持が異母弟・足利義嗣(あしかがよしつぐ)を追放して北山殿(金閣寺)に入ったが、翌1409年(応永16年)に北山殿の一部を破却し、その後足利義満の妻・北山院(日野康子(ひのやすこ))の御所になりました。
- 1416年(応永23年)1月に北山大塔が落雷で未完のまま焼失したとも言われています。足利義持は金閣寺から相国寺に場所を移し、七重大塔の再建を命じたと言われています。
- 1419年(応永26年)に北山院(日野康子)が亡くなると舎利殿(金閣)以外の寝殿などの伽藍は解体され、南禅寺(なんぜんじ)・建仁寺(けんにんじ)に移されたと言われています。
【金閣寺(鹿苑寺)の起源・始まり】
- 金閣寺(鹿苑寺)は1420年(応永27年)に足利義満の遺言により、北山殿(金閣寺)が夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそぜき)を開山として、禅寺・北山鹿苑寺(ろくおんじ)に改められて創建されました。北山鹿苑寺の名称は足利義満の法号「鹿苑院殿(鹿苑院天山道義(ろくおんいんてんざんどうぎ))」に由来しています。金閣寺の寺院としての歴史が始まりました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって金閣寺の伽藍の多くが焼失したが、金閣・不動堂・護摩堂などは焼失を免れました。
- 1485年(文明17年)に足利義満の孫で、銀閣寺の前身である東山殿(ひがしやまどの)を造営した室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が金閣寺を訪れ、荒廃していた記録が残されています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 天正年間(1573年~1591年)に宇喜多秀家(うきたひでいえ)が不動堂を再建したと言われています。
- 1589年(天正17年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が朱印状(しゅいんじょう)によって金閣寺の寺領を350石としました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 江戸時代に金閣寺の主要な伽藍が再建されました。1649年(慶安2年)には金閣も修理されたと言われています。なお鹿苑寺住職・西笑承兌(さいしょうじょうたい)は関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)や江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に政治顧問として重用され、「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」と言われていました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 明治維新後の上知により、金閣寺は境内の多くを失って衰微しました。
- 1929年(昭和4年)に金閣が国宝に指定されました。
- 1925年(大正14年)に庭園が史跡・名勝に指定されました。
- 1950年(昭和25年)に金閣が放火によって焼失し、1955年(昭和30年)に再建されました。
- 1956年(昭和31年)に庭園が特別史跡・特別名勝に指定されました。
- 1986年(昭和61年)から翌1987年(昭和62年)に金閣の昭和大修復が行われました。
- 1994年(平成6年)に金閣寺はユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。
【金閣寺の開基とされる足利義満】
足利義満は1358年(正平13年・延文3年)に室町幕府2代将軍・足利義詮と側室・紀良子の間に生まれました。紀良子は石清水八幡宮の検校・善法寺通清の娘で、第84代・順徳天皇の玄孫で、足利義満は「春王」と名付けられました。1366年(正平21年・貞治5年)に北朝第4代・後光厳天皇から「義満」の名を賜りました。1367年(正平22年・貞治6年)に父・足利義詮が亡くなると10歳で家督を継ぎ、1369年(正平23年・応安元年)に征夷大将軍宣下を受け、室町幕府3代将軍になりました。1394年(応永元年)に将軍職を子で、足利義持に譲ったが、その後も実権を手放さずに金閣寺の前身・北山殿で政務を執りました。足利義満は南北朝の合一を果たし、北山文化を開花させました。なお足利義満は1408年(応永15年)に亡くなりました。
【金閣寺 備考】
*参考・・・金閣寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ