金閣寺歴史簡単まとめ-時代別年表と重要人物で解説

金閣寺見どころ

金閣寺歴史簡単まとめ

金閣寺歴史を簡単にまとめています。時代別年表と重要人物で解説。金閣寺は1397年(応永4年)に室町幕府3代将軍・足利義満が領地交換により、北山第を譲り受けて改築・新築して造営し、北山殿と名付けたのが起源です。なお金閣寺歴史では歴史年表で簡単にまとめたり、歴史上人物などを紹介したりしています。

【金閣寺歴史以外の情報】
金閣寺見どころ(金閣・不動堂など)
★金閣寺歴史年表

【前史:金閣寺】

  • 金閣寺が建立されている場所は鎌倉時代前期に公卿(くぎょう)・西園寺公経(さいおんじきんつね)が尾張国松枝庄の所領との交換により、公卿・白川仲資王(しらかわなかすけおう)から手に入れた土地でした。1224年(元仁元年)に西園寺公経が山荘・北山第(きたやまてい)を造営し、氏寺・西園寺を創建したと言われています。北山第は小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)の撰者・藤原定家(ふじわらのていか)によると比類のない斬新さで、高さ四十五尺の滝と碧瑠璃(みどりるり)を湛えたように美しい池があったそうです。また地上の仙境(せんきょう)、此岸の浄土(しがんのじょうど)とも言われていたそうです。しかし南北朝時代の1335年(建武2年)に公卿・西園寺公宗(さいおんじきんむね)が鎌倉幕府滅亡後の北条氏と南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を暗殺しようとした謀反が発覚し、西園寺公宗は処刑され、西園寺氏の所領などは没収されました。

【御所・北山殿(北山第):金閣寺】

  • 金閣寺の前身である御所・北山殿(きたやまどの・北山第)は1397年(応永4年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が河内の領地との交換により、山荘・北山第を譲り受けて造営しました。1398年(応永5年)に北山殿に舎利殿(しゃりでん・金閣)が建立され、1層目に釈迦三尊(しゃかさんぞん)が安置され、2層目は観音殿と言われ、3層目に仏舎利(ぶっしゃり)が納められました。北山殿はその規模が御所に匹敵し、政治の中枢が全て集約され、足利義満が開花させた北山文化の象徴でした。なお足利義満は将軍時代に室町第・花の御所で政務を行っていたが、1394年(応永元年)に将軍職を9歳の嫡男である室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)に譲り、その後も北山殿で政務を行いました。1395年(応永2年)には出家し、道義(どうぎ)と号しました。
  • 1404年(応永11年)に北山殿(金閣寺)に高さ110メートル(360尺)とも言われる北山大塔(七重大塔)の造営を開始し、立柱の儀が行われたが、1416年(応永23年)に落雷で未完のまま焼失したとも言われています。なお足利義満は1399年(応永6年)に相国寺(しょうこくじ)に高さ110メートル(360尺)とも言われる七重大塔を建立したが、1403年(応永10年)に落雷で焼失し、翌1404年(応永11年)に北山殿に場所を移し、北山大塔の造営を開始しました。
  • 1408年(応永15年)に第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)に北山殿(金閣寺)への行幸を仰ぎ、盛大な宴を開き、北山行幸と言われました。同年5月に足利義満が亡くなると嫡男・足利義持が異母弟・足利義嗣(あしかがよしつぐ)を追放して北山殿に入ったが、翌1409年(応永16年)に北山殿の一部を破却し、その後足利義満の妻・北山院(日野康子(ひのやすこ))の御所になりました。
  • 1416年(応永23年)1月に北山大塔が落雷で未完のまま焼失したとも言われています。足利義持は金閣寺から相国寺に場所を移し、七重大塔の再建を命じたと言われています。
  • 1419年(応永26年)に北山院(日野康子)が亡くなると舎利殿(金閣)以外の寝殿などの伽藍は解体され、南禅寺(なんぜんじ)・建仁寺(けんにんじ)に移されたと言われています。
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【創建(起源・由来):金閣寺】

  • 金閣寺は1420年(応永27年)に足利義満の遺言により、御所・北山殿が夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそぜき)を開山として、禅寺・北山鹿苑寺(ろくおんじ)に改められて創建されました。北山鹿苑寺の名称は足利義満の法号「鹿苑院殿(鹿苑院天山道義(ろくおんいんてんざんどうぎ))」に由来しています。

【室町時代の出来事:金閣寺】

  • 応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって金閣寺の伽藍の多くが焼失したが、金閣・不動堂・護摩堂などは焼失を免れました。
  • 1485年(文明17年)に足利義満の孫で、銀閣寺の前身である東山殿(ひがしやまどの)を造営した室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が金閣寺を訪れ、荒廃していた記録が残されています。

【安土桃山時代の出来事:金閣寺】

  • 天正年間(1573年~1591年)に宇喜多秀家(うきたひでいえ)が不動堂を再建したと言われています。
  • 1589年(天正17年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が朱印状(しゅいんじょう)によって寺領350石としました。

【江戸時代の出来事:金閣寺】

  • 江戸時代に金閣寺の主要な伽藍が再建されました。1649年(慶安2年)には金閣も修理されたと言われています。なお鹿苑寺住職・西笑承兌(さいしょうじょうたい)は関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)や江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に政治顧問として重用され、「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」と言われていました。

【明治時代以降の出来事:金閣寺】

  • 1929年(昭和4年)に金閣が国宝に指定されました。
  • 1925年(大正14年)に庭園が史跡・名勝に指定されました。
  • 1950年(昭和25年)に金閣が放火によって焼失し、1955年(昭和30年)に再建されました。
  • 1956年(昭和31年)に庭園が特別史跡・特別名勝に指定されました。
  • 1986年(昭和61年)から翌1987年(昭和62年)に金閣の昭和大修復が行われました。
  • 1994年(平成6年)に金閣寺はユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。

★金閣寺歴史上人物

【足利義満:金閣寺開基】

金閣寺開基は足利義満です。足利義満は1358年(正平13年・延文3年)に室町幕府2代将軍・足利義詮と側室・紀良子の間に生まれました。紀良子は石清水八幡宮の検校・善法寺通清の娘で、第84代・順徳天皇の玄孫で、足利義満は「春王」と名付けられました。1366年(正平21年・貞治5年)に北朝第4代・後光厳天皇から「義満」の名を賜りました。1367年(正平22年・貞治6年)に父・足利義詮が亡くなると10歳で家督を継ぎ、1369年(正平23年・応安元年)に征夷大将軍宣下を受け、室町幕府3代将軍になりました。1394年(応永元年)に将軍職を子で、足利義持に譲ったが、その後も実権を手放さずに金閣寺の前身・北山殿で政務を執りました。足利義満は南北朝の合一を果たし、北山文化を開花させました。なお足利義満は1408年(応永15年)に亡くなりました。

【夢窓疎石:金閣寺開山】

金閣寺開山は夢窓疎石です。夢窓疎石は1275年(建治元年)に伊勢国に生まれました。幼少時に出家し、母方の一族の争いで甲斐国に移り、1283年(弘安6年)に甲斐・平塩寺の空阿に師事して天台宗・真言宗などを学びました。1292年(正応5年)に奈良・東大寺戒壇院の慈観のもとで受戒し、その後京都・建仁寺の無隠円範に禅宗を学びました。その後鎌倉に赴き、奥州などを遊歴し、1325年 (正中2年) に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇の勅によって京都・南禅寺の住持になりました。室町時代初代将軍・足利尊氏の帰依を受け、京都・天龍寺の開山になりました。夢窓疎石は1351年(観応2年・正平6年)に亡くなりました。なお夢窓疎石は歴代天皇から国師号を生前に夢窓国師・正覚国師・心宗国師、死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師に賜って、七朝帝師とも称されました。

【金閣寺放火事件】

金閣は1950年(昭和25年)7月2日未明、21歳の学僧の放火により、足利義満坐像(国宝)などとともに焼失しました。その後放火や学僧の母親の投身自殺は衝撃を与え、三島由紀夫(みしまゆきお)の小説「金閣寺」などの題材にもなりました。

【金閣寺歴史簡単まとめ 備考】
*参考・・・京都世界遺産・金閣寺(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ

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