銀閣寺歴史-足利義政が東山殿を造営したのが起源
銀閣寺歴史-修学旅行・観光ポイント
銀閣寺の歴史は1473年(文明5年)に室町幕府8代将軍・足利義政が長子・義尚に将軍職を譲り、東山山荘・東山殿を造営したのが始まりです。1490年(延徳2年)の義政没後に東山殿が禅寺に改められ、銀閣寺が創建されました。なお歴史は時代別に年表にまとめ、重要人物も紹介しています。
【銀閣寺が建立されている場所】
★銀閣寺が建立されている場所には平安時代中期に入唐八家(にっとうはっけ)に数えられ、天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)の宗祖である智証大師(ちしょうだいし)・円珍(えんちん)が創建し、平安時代中期の寛仁年間(1017年~1020年)に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の孫で、天台座主(てんだいざす)第25世・明求(みょうぐ)が堂宇を再建した天台宗の寺院・浄土寺(じょうどじ)が建立されていました。ちなみに浄土寺は室町時代中期の応仁の乱(おうにんのらん)によって焼失しました。なお浄土寺では室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の弟・義尋(ぎじん)が門跡(もんぜき)になっていたが、1464年(寛正5年)に義尋は兄・足利義政に呼び戻され、還俗して足利義視(あしかがよしみ)になり、足利義政の後継者とされたが、1465年(寛正6年)に足利義政の長子・足利義尚(あしかがよしひさ)が誕生し、後継者を巡って応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が勃発します。
【東山山荘・東山殿の造営】
★銀閣寺の前身である東山山荘・東山殿(ひがしやまどの)は室町時代中期の1465年(寛正6年)に足利義政が南禅寺(なんぜんじ)の塔頭(たっちゅう)・恵雲院が建立されていた場所に造営することを決めたが、応仁の乱が勃発して焼失した浄土寺跡に造営することに決めました。ちなみに恵雲院は戦国時代(室町時代後期)に廃絶したが、恵雲院は京都市左京区南禅寺北ノ坊町周辺に建立されていました。
★1473年(文明5年)に西軍総大将・山名宗全(やまなそうぜん)と東軍総大将・細川勝元(ほそかわかつもと)が相次いで亡くなると足利義政は長子・足利義尚に将軍職(室町幕府第9代将軍)を譲りました。
★1482年(文明14年)から浄土寺跡に東山殿の造営を開始し、翌1483年(文明15年)に常御所(つねごしょ)が完成すると足利義政が洛北・長谷から移り住んだと言われています。東山殿の名称は第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)から賜りました。銀閣寺の前身である東山殿の歴史が始まりました。
★1485年(文明17年)に禅室として西指庵が完成すると足利義政は落髪して喜山道慶(きざんどうけい)と称して出家しました。
★1486年(文明18年)に足利義政の持仏堂として東求堂(とうぐどう)が完成しました。
★1487年(長享元年)に東山殿会所・泉殿(弄清亭(ろうせいてい))が完成しました。
★1489年(長享3年)に銀閣(観音殿(かんのうでん))が完成したとも言われています。同年3月に銀閣の立柱上棟が行われたが、同年10月に足利義政が病に倒れ、翌1490年(延徳2年)1月7日に亡くなり、銀閣の完成を見ることなく亡くなったとも言われています。
【銀閣寺(慈照寺)の起源・始まり】
★銀閣寺(慈照寺)は1490年(延徳2年)の足利義政没後、その遺命によって夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそせき)を勧請開山として創建されました。足利義政の院号「慈照院殿(じしょういんどの)」から臨済宗(りんざいしゅう)相国寺(しょうこくじ)派の禅寺・慈照院(じしょういん)に改められました。銀閣寺の寺院としての歴史が始まりました。
★1491年(延徳3年)に寺号が慈照院から慈照寺に改められました。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の出来事・事件】
★1550年(天文19年)に室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と三好長慶(みよしながよし)との兵火により、銀閣・東求堂以外の多くの伽藍が焼失しました。その後銀閣寺6世・陽山瑞暉が太政大臣・近衛前久(このえさきひさ)の弟だったことから近衛前久の別荘になりました。
★1569年(永禄12年)に織田信長(おだのぶなが)が足利義昭の為に二条城の築城を開始すると銀閣寺の庭園から名石・九山八海石が移されました。銀閣寺は室町幕府の衰退とともに荒廃していきます。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事・事件】
★1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朱印を得て 銀閣寺の寺領が35石になったとも言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事・事件】
★1612年(慶長17年)に近衛前久が亡くなると銀閣寺は相国寺派の禅寺として再興されました。
★1615年(慶長20年)に宮城丹波守豊盛(みやぎたんごのかみとよもり)によって大改修が行われ、現在の姿の起源になりました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事・事件】
★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、銀閣寺は荒廃したと言われています。
★1900年(明治33年)に銀閣が国の重要文化財、1903年(明治36年)に東求堂が国の重要文化財に指定されました。
★1951年(昭和26年)に銀閣・東求堂が国宝に指定されました。
★1952年(昭和27年)に庭園が国の特別史跡・特別名勝に指定されました。
★1994年(平成6年)に銀閣寺はユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。
★2007年(平成19年)に奈良文化財研究所による科学的調査により、銀閣は建立以来一度も外壁に銀箔が張られていなかったことが判明しました。調査では風雨に晒されにくく、これまで修理されなかった部分から分析試料を取り出し、エックス線分析などを行ったが、銀の成分は全く検出されませんでした。
【銀閣寺の開基とされる足利義政】
足利義政は1436年(永享8年)に室町幕府第6代将軍・足利義教と日野重子の五男として生まれました。1441年(嘉吉元年)に父・足利義教が嘉吉の乱で殺害され、兄・足利義勝が室町幕府第7代将軍になったが、1443年(嘉吉3年)に兄・足利義勝も早逝すると8歳で後継者に選出されました。1446年(文安3年)に第102代・後花園天皇から「義成」の名を賜り、1449年(文安6年)に室町幕府第8代将軍になりました。宿老中心の政治を嫌って遊興にふけるようになりました。当初嗣子なく、弟・義尋を還俗させ、将軍職に就けようとしました。しかし1465年(寛正6年)に長子・足利義尚が生まれると継嗣問題から応仁の乱が起こります。1473年(文明5年)に長子・足利義尚に将軍職を譲って隠居し、その後銀閣寺の前身である東山山荘・東山殿を造営し、茶の湯・絵画など風雅な生活を送り、銀閣寺を中心に東山文化が開花しました。なお足利義政は1490年(延徳2年)に亡くなりました。
【銀閣寺 備考】
*参考・・・銀閣寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ