泉涌寺歴史の簡単まとめ-神修上人・俊じょう

泉涌寺(Sennyu-ji Temple)

泉涌寺歴史-修学旅行・観光ガイド

泉涌寺歴史を簡単にまとめてポイント解説します。泉涌寺は天長年間に弘法大師・空海が草庵を結んだのが起源とも、856年(斉衡3年)に藤原緒嗣が神修上人を開山に山荘を改めたのが起源とも言われています。なお泉涌寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

泉涌寺見どころ(仏殿・開山堂など)

【前史(月輪山(泉涌寺山・泉山))】

  • 泉涌寺が建立されている月輪山(泉涌寺山・泉山(せんざん))は標高約164メートルで、東山三十六峰に数えられています。月輪山山麓からは寺号「泉涌寺」の由来となった泉涌水(せんにゅうすい)が湧き出しています。

【創建(起源・由来)】

  • 泉涌寺は平安時代前期の855年(斉衡2年)に左大臣・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が僧・神修上人(じんしゅうしょうにん)に山荘を与えて寺院に改め、仙遊寺(せんゆうじ)と称したのが起源とも言われています。また泉涌寺は平安時代前期の天長年間(824年~833年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が草庵を結び、法輪寺(ほうりんじ)と名付けたのが起源とも言われています。
  • 泉涌寺は鎌倉時代前期の1218年(建保6年)に月輪大師(がちりんだいし)・俊じょう(しゅんじょう)が鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)の家臣・宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)から荒廃した仙遊寺を寄進されて開山しました。また後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)やその兄・守貞親王から多額の資金(准絹(じゅんけん))を賜りました。宋(中国)法式を取り入れた大伽藍の建立が開始され、1226年(嘉禄2年)に主な伽藍が完成しました。寺号は寺地の一角から清水が涌き出したことから泉涌寺に改められました。清水は現在も枯れることなく湧き続けています。泉涌寺は月輪大師・俊じょうが宋(中国)からの帰国後に戒律の復興を計ったことから律(りつ・北京律)を基本に天台(てんだい)・真言(しんごん)・禅(ぜん)・浄土(じょうど)の四宗兼学でした。なお泉涌寺では月輪大師・俊じょうを開山と位置付けています。
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【鎌倉時代の出来事】

  • 1224年(貞応3年)に第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう)の勅旨により、泉涌寺が官寺になって、勅願寺(ちょくがんじ)とされました。1234年(文暦元年)に後堀河天皇が崩御すると陵墓が造営されました。
  • 1255年(建長7年)に湛海(たんかい)が宋(中国)から仏牙舎利(ぶつげしゃり)・楊貴妃観音(ようきひかんのん)像・十六羅漢(じゅうろくらかん)像・月蓋長者(がっかいちょうじゃ)像・韋駄天(いだてん)像などを請来したと言われています。
  • 1227年(嘉禄3年)に泉涌寺開山である月輪大師・俊じょうが亡くなりました。1411年(応永18年)に第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)から号「大興正法国師」、1726年(享保11年)に第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう)から号「大円覚心照国師」、1883年(明治16年)に第122代・明治天皇(めいじてんのう)から号「月輪大師」が贈られました。
  • 1242年(仁治3年)に第87代・四条天皇(しじょうてんのう)が12歳で崩御し、泉涌寺で葬儀が行われ、山陵も造営されました。その後南北朝時代から安土桃山時代の歴代天皇や江戸時代の第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から第121代・孝明天皇(こうめいてんのう)までの歴代天皇・皇后の葬儀も泉涌寺で行われ、泉涌寺山内に設けられた山陵は月輪陵(つきのわのみさぎ)と名付けられました。
  • 1255年(建長7年)に湛海(たんかい)が南宋(中国)から仏牙舎利・楊貴妃観音(ようきひかんのん)像・十六羅漢(じゅうろくかんのん)像・月蓋長者(がっかいちょうじゃ)像・韋駄天(いだてん)像などを将来しました。

【南北朝時代の出来事】

  • 1336年(延元元年・建武3年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)軍が泉涌寺に陣を敷き、放火や略奪に見舞われました。
  • 1374年(文中3年・応安7年)に北朝第4代・後光厳天皇(ごこうごんてんのう)が崩御し、泉涌寺で火葬分骨・埋葬が行われました。その後9代の天皇の火葬・山陵の地になりました。

【室町時代の出来事】

  • 1411年(応永18年)10月に泉涌寺開山である月輪大師・俊じょうが北朝第6代で、第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)から号「大興正法国師」が贈られました。
  • 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))により、泉涌寺が全山焼失したと言われています。
  • 1486年(文明18年)に開山堂が再建され、第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)から勅額「霊光」を賜りました。
  • 1492年(明応元年)に第103代・後土御門天皇が泉涌寺再興の綸旨を下しました。

【安土桃山時代の出来事】

  • 1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が泉涌寺の寺領494石を安堵しました。

【江戸時代の出来事】

  • 1615年(元和元年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が泉涌寺の寺領601余石の朱印状を与えました。
  • 1669年(寛文9年)に江戸幕府4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)が後水尾上皇(第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう))や第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)の勅命により、泉涌寺の再建に着手しました。
  • 1718年(享保3年)に画僧・明誉古かん(めいよこかん)筆の大涅槃像が泉涌寺に奉納されました。
  • 1726(享保11年)2月に泉涌寺開山である月輪大師・俊じょうが第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう)から号「大円覚心照国師」が贈られました。
  • 江戸時代に第108代・後水尾天皇から第121代・孝明天皇(こうめいてんのう)までが泉涌寺山内に葬られ、「御寺(みてら)」と尊称されるようになりました。

【明治時代以降の出来事】

  • 明治維新後に神仏判然令により、陵墓の管理が泉涌寺から宮内省諸陵寮に移されました。
  • 1876年(明治9年)に京都御所の仏間・御黒戸(おくろう)に安置されていた念持仏が海会堂に移されました。諸寺院の御尊碑も泉涌寺に合祀されました。
  • 1878年(明治11年)に御陵が宮内省の所管になりました。
  • 1883年(明治16年)6月に月輪大師・俊じょうが第122代・明治天皇(めいじてんのう)から号・月輪大師が贈られました。

【月輪大師・俊じょう:泉涌寺開山】

泉涌寺の実質的な開山は月輪大師・俊じょうです。月輪大師・俊じょうは1166年(仁安元年)に肥後(熊本)で生まれました。14歳の時に飯田山常楽寺の真俊の弟子になって天台・真言を学び、1183年(寿永3年)に出家・剃髪し、翌1184年(元暦元年)に大宰府・観世音寺で具足戒を授かりました。その後奈良と京都を往復して大乗・小乗の戒律を究めました。1199年(正治元年)に宋(中国)に渡り、径山の蒙庵元総に禅、四明山の如庵了宏に律、超果教院の北峰宗印に中国天台を学び、1211年(建暦元年)に帰国して北京律を創始しました。宋(中国)から律・天台・華厳・儒道などの典籍や書画などを持ち帰りました。1218年(建保6年)に宇都宮氏の祖・宇都宮信房から泉涌寺の前身である仙遊寺を寄進され、後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)など天皇・公家・武家などから寄進を受け、1226年(嘉禄2年)に主要伽藍を整備し、御願寺になりました。なお月輪大師・俊じょうは1227年(嘉禄3年)に亡くなりました。

【泉涌寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・泉涌寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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