葵祭路頭の儀2025年5月15日(悪天候の場合に順延)斎王代

葵祭(Aoi Matsuri Festival)

葵祭路頭の儀(時代行列)

葵祭路頭の儀(日程・時間・・・)を紹介しています。路頭の儀(時代行列)は5月15日に行われます。ただ悪天候の場合には翌16日に順延されます。路頭の儀は下鴨神社・上賀茂神社で天皇のお言葉が書かれた祭文を奏上し、幣物を奉納する社頭の儀を行う為に勅使などが行列を組んで下鴨神社・上賀茂神社に向かいます。(詳細下記参照)

★葵祭2025の最新情報

【葵祭路頭の儀(時代行列)2025 日程時間(要確認)】

葵祭路頭の儀(時代行列)2025は2025年(令和7年)5月15日(木曜日)10:30から行われます。ただ悪天候の場合、翌16日(金曜日)に順延されます。ちなみに途中降雨の場合、巡行が打ち切られる場合があります。(現在確認中・要注意)
葵祭2025日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)

【葵祭路頭の儀(時代行列) ルート・マップ】


●京都御所~下鴨神社:京都御所出発(10:30)→堺町御門→丸太町通(11:00頃)→河原町通→下鴨神社到着(11:40頃)
●下鴨神社~上賀茂神社:下鴨神社出発(14:20)→下鴨本通→洛北高校前(14:40頃)→北大路通→北大路橋(14:55頃)→賀茂川堤→上賀茂神社到着(15:30頃)

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【葵祭路頭の儀(時代行列) 簡単概要】

葵祭路頭の儀(ろとうのぎ)は下鴨神社・上賀茂神社で天皇のお言葉が書かれた祭文(さいもん)を奏上し、幣物(へいもつ)を奉納する社頭の儀(しゃとうのぎ)を行う為に行われています。路頭の儀では先ず京都御所(京都御苑)から下鴨神社に向かい、下鴨神社到着後に社頭の儀が行われます。その後下鴨神社から上賀茂神社に向かい、上賀茂神社到着後にも社頭の儀が行われます。
葵祭路頭の儀では京都御所(京都御苑)から下鴨神社を経由し、上賀茂神社までの約8キロを平安装束を身に着けた人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁など長さ約1キロの行列が巡行します。ちなみに京都府警の平安騎馬隊(へいあんきばたい)が行列を先導警備します。路頭の儀の行列は勅使の本列と斎王代の斎王代列に大きく分類されます。
●本列は乗尻(のりじり)・検非違使志(けびいしのさかん)・検非違使尉(けびいしのじょう)・山城使(やましろつかい)・御幣櫃(ごへいびつ)・内蔵寮史生(くらりょうのししょう)・馬寮使(めりょうつかい)・牛車(ぎっしゃ)・御馬(おうま)・和琴(わごん)・舞人(まいびど)・陪従(べいじゅう)・内蔵使(くらづかい)・勅使(ちょくし)・牽馬(ひきうま)・風流傘(ふりゅうがさ)・風流傘(ふりゅうがさ)などで構成されています。
●斎王代列は命婦(みょうぶ)・女嬬(にょじゅ)・斎王代(さいおうだい)・騎女(むなのりおんな)・蔵人所陪従(くろうどどころべいじゅう)・牛車(ぎっしゃ)・命婦(みょうぶ)などで構成されています。
●斎王代列の装束は1955年(昭和30年)の宮中文華典や1956年(昭和31年)の京都文華典で展示され、寄贈されたものが始まりです。1967年(昭和42年)から1976年(昭和51年)に新調・修繕され、1975年(昭和45年)に斎王代の十二単が新調されました。1980年(昭和55年)に新たな十二単一式三つ衣が有職織師・喜多川平朗から寄贈されました。2008年(平成20年)に表着・表着の上に羽織る唐衣・袴の上に纏う裳を新調しました。喜多川俵二が制作し、費用は550万円でした。
葵祭日程(路頭の儀・前儀・後儀・・・)

【葵祭・路頭の儀の歴史】

葵祭は第29代・欽明天皇(きんめいてんのう)の時代(539年~571年)、京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(かものおおかみ)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであるとした為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭を被り、駆競(くち)して、盛大に祭りを行ったことが起源と言われています。その後807年(大同2年)に天皇の使者である勅使が派遣されて行われる勅祭になり、810年(弘仁元年)に伊勢神宮の斎宮制に倣って、葵祭に奉仕する賀茂斎院(かもさいいん)が設けられ、819年(弘仁10年)に伊勢神宮とともに中祀に準じて行われるようになりました。貞観年間(859年~876年)に儀式次第が定められ、壮麗な祭儀が完成したが、賀茂社(下鴨神社・上賀茂神社)社頭の祭儀は一般に見ることが殆ど許されず、御所から賀茂社に向かう路頭の儀の行装を見ようと法皇・上皇などが牛車を並べ、檜皮葺(ひわだぶき)の桟敷(さじき)も設けられました。その後平安時代中期に単に祭りというと葵祭を指すほど隆盛しました。鎌倉時代以降に徐々に衰微し、室町時代中期に起こった応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))以降は約200年に渡って廃絶しました。往時の祭儀を復興させることは困難だったが、1694年(元禄7年)に賀茂社の熱意・朝廷や公家の理解・江戸幕府の協力にって再興され、1870年(明治3年)まで行われました。その後中絶し、1884年(明治17年)に第122代・明治天皇が旧儀を復興させ、葵祭とともに三勅祭に数えられた春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭とともに厳粛に祭儀が行われるようになりました。なお路頭の儀(時代行列)は1926年(大正15年)に更に整備されたが、戦中の1943年(昭和18年)に中止になり、社頭の儀だけが行われるようになりました。戦後の1953年(昭和28年)に葵祭行列協賛会の後援によって路頭の儀(時代行列)が復活し、1956年(昭和31年)に斎王に代わる斎王代を中心とする女人列が復興され、往時のような華やかで美しい行装が京都市中を巡行するようにありました。
葵祭歴史年表

【平安時代の路頭の儀】

平安時代に京都御所にあたる平安宮(大内裏)は京都御所の西側で、北側が一条通、南側が二条通、東側が大宮通、西側が御前通に囲まれた地域にありました。また葵祭に奉仕していた斎王の賀茂斎院が現在の櫟谷七野神社(上京区上御霊前通智恵光院東入)辺りにありました。平安宮を出発した勅使らの奉幣使(ほうべいし)一行は一条大路を東側に進み、賀茂斎院を出発した斎王一行は大宮通を南下し、一条大宮で合流し、一条大路を東側に向かって下鴨神社に参向しました。奉幣使一行には水干(すいかん)姿の童(わらわ)・雑色・(ぞうしき)・取物(とりもの)・口取(くちとり)の将曹・口取の府生(ふしょう)・近衛使(このえのつかい)・水干姿の居飼(いかい)・襖(あお)姿の舎人(とねり)・褐衣(かちえ)姿の手振(てぶり)・狩衣(かりぎぬ)姿の従者・供奉僧(ぐぶそう)などが巡行しました。一条大路には桟敷が設けられ、皇族・貴族などの牛車が並び、皇族・貴族から庶民にいたる見物人で溢れました。紫式部作の「源氏物語」の「葵の巻」に描かれている葵の上と六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)による「車争い」も斎院御禊(さいいんぎょけい)の際に一条大路で起こりました。

【葵祭路頭の儀(時代行列) 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭2025日程(路頭の儀・前儀・後儀・・・)

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