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カテゴリー:葵祭(京都)
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第16代斎王(賀茂斎院)・選子内親王と葵祭
葵祭では810年(弘仁元年)に嵯峨天皇が薬子の変で勝利したことから斎王が設けられました。選子内親王は975年(天延3年)に斎王になり、円融天皇・花山天皇・一条天皇・三条天皇・後一条天皇の5代・57年に渡って斎王を務めました。 -
第31代斎王(賀茂斎院)・式子内親王と葵祭
葵祭では810年(弘仁元年)に第52代・嵯峨天皇が薬子の変で勝利したことから斎王(賀茂斎院)が設けられました。式子内親王は1159年(平治元年)から1169年(嘉応元年)までの約10年間、第31代斎王(賀茂斎院)を勤めました。 -
最後(第35代)の斎王・礼子内親王と葵祭
葵祭では810年(弘仁元年)に嵯峨天皇が薬子の変で勝利したことから斎王が設けられました。1212年(建暦2年)に最後の斎王となる第35代斎王・礼子内親王が病気で退下し、その後承久の乱などの混乱などにより、斎王が廃絶しました。 -
初代斎王・有智子内親王(うちこないしんのう)と葵祭
葵祭は807年(大同2年)に第51代・平城天皇によって勅祭とされました。810年(弘仁元年)に第52代・嵯峨天皇が兄・平城上皇と対立し、薬子の変で勝利したことから嵯峨天皇の皇女・有智子内親王が斎王(賀茂斎院)になりました。 -
延喜式(えんぎしき)」の中祀(ちゅうし)と葵祭
葵祭は807年(大同2年)に勅祭とされました。その後819年(弘仁10年)に第52代・嵯峨天皇が中祀に準じて行うようにと勅を下しました。「日本紀略」に「勅、山城国愛宕郡賀茂御祖并に別雷二神之祭、宜く中祀に准ずべし。」と記されています。 -
卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)と葵祭
葵祭の起源は「山城国風土記」逸文によると卜部伊吉若日子の占いでした。卜部伊吉若日子は勅命で占い、勅使として祭礼を行いました。卜部伊吉若日子に関する明確な資料は少なく、「秦氏本系帳」によると壱岐卜部氏の氏人だったと言われています。 -
賀茂競馬・堀河天皇(ほりかわてんのう)と葵祭
葵祭の前儀・賀茂競馬は「競馬略記」によると元々、天下太平と五穀豊穣を祈願する宮中武徳殿の競馬会式だったが、平安時代後期の1093年(寛治7年)に第73代・堀河天皇が上賀茂神社に移し、10番・20匹の競馳が行われるようになりました。 -
馬・「山城国風土記(やましろこくふうどき)」逸文と葵祭
葵祭では前儀に賀茂競馬・流鏑馬神事が行われ、社頭の儀で走馬の儀が行われ、馬を使う行事が多く行われています。馬を使う行事は「山城国風土記」逸文に欽明天皇の時代に記され、葵祭では馬に鈴を懸け、人に猪の頭を被らせて駆競が行われたと言われています。 -
「源氏物語」の光源氏(ひかるげんじ)と葵祭
葵祭では現在、斎王代がヒロインと言われるが、歴史的に勅使が重要な役割を果たしていました。勅使は宮中の儀で御祭文などを受け取り、賀茂社に到着すると御祭文を奏上しました。「源氏物語」の主人公・光源氏も勅使だったことが記されています。 -
路頭の儀(ろとうのぎ)・一条大路と葵祭
平安時代の路頭の儀では勅使らの奉幣使一行が平安宮を出発して一条大路を東側に進み、葵祭に奉仕した斎院(斎王)一行が賀茂斎院を出発し、奉幣使一行と斎院一行が一条大宮で合流し、その後一条大路を東側に向かって下鴨神社に参向しました。 -
二葉葵(ふたばあおい・双葉葵)と葵祭
葵祭に二葉葵(双葉葵)が使われるようになったのは「賀茂旧記」や「山城国風土記」逸文によると上賀茂神社の祭神・賀茂別雷大神(かもわけいかづちおおかみ)降臨の際、葵を飾って祭りをせよとの神託があったことに由来するとも言われています。 -
斎王(さいおう)・賀茂斎院(かもさいいん)と葵祭
斎王は天皇の娘である未婚の内親王または女王から選ばれたが、天皇が譲位・崩御した場合には退下するのが習わしとされていました。斎王は日常的に忌詞(いみことば)などを用いて、不浄・仏事を避け、祭事に奉仕しました。