最後(第35代)の斎王・礼子内親王と葵祭
最後(第35代)の斎王・礼子内親王と葵祭
葵祭では810年(弘仁元年)に嵯峨天皇が薬子の変で勝利したことから斎王が設けられました。鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1212年(建暦2年)に最後の斎王となる第35代斎王・礼子内親王が病気で退下し、その後承久の乱などの混乱などにより、斎王が廃絶しました。
【葵祭日程2025(要確認)】
葵祭2025ではハイライトである路頭の儀が2025年5月15日(木曜日)に行われます。(悪天候の場合、翌16日に順延)なお葵祭では例年5月1日から主な前儀・後儀が行われます。
葵祭2025日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭・路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀2025
【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の第29代・欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来
【最後(第35代)の斎王・礼子内親王(れいしないしんのう・いやこないしんのう)】
葵祭では810年(弘仁元年)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)と兄・平城上皇(第51代・平城天皇(へいぜいてんのう))が対立する薬子の変(くすこのへん)が起こり、嵯峨天皇が賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)に皇女を賀茂社の神迎えの儀式に奉仕する阿礼少女(あれおとめ)に捧げると祈願し、勝利したことから嵯峨天皇の皇女・有智子内親王(うちこないしんのう)が初代斎王(賀茂斎院)になりました。その後時子内親王(ときこないしんのう)、高子内親王(こうしないしんのう)、慧子内親王(あきらけいこないしんのう)、述子内親(じゅつしないしんのう)、儀子内親王(ぎしないしんのう)、敦子内親王(あつこないしんのう)、穆子内親王(ぼくしないしんのう)、直子女王(なおこじょおう)、君子内親王(くんしないしんのう)、恭子内親王(きょうしないしんのう)、宣子内親王(せんしないしんのう)、韶子内親王(しょうしないしんのう)、婉子内親王(えんしないしんのう)、尊子内親王(そんしないしんのう)、選子内親王(せんしないしんのう)、馨子内親王(けいしないしんのう)、娟子内親王(けんしないしんのう)、娟子内親王(けんしないしんのう)、ばい子内親王(ばいしないしんのう)、正子内親王(まさこないしんのう)、佳子内親王(かしないしんのう)、篤子内親王(とくしないしんのう)、斉子女王(せいしじょおう)、令子内親王(れいしないしんのう)、禛子内親王(しんしないしんのう)、官子内親王(かんしないしんのう)、そう子内親王(そうしないしんのう)、統子内親王(むねこないしんのう)、禧子内親王(きしないしんのう)、怡子女王(いしじょおう)、式子内親王(しょくしないしんのう)、ぜん子内親王(ぜんしないしんのう)、頌子内親王(しょうしないしんのう)、範子内親王(はんしないしんのう)が斎王(賀茂斎院)を務め、礼子内親王(れいしないしんのう)が最後の斎王となる第35代斎王になりました。礼子内親王は鎌倉時代(1185年~1333年)前期の1204年(元久元年)に斎王(賀茂斎院)に卜定されたが、1212年(建暦2年)に病気で退下しました。その後1221年(承久3年)に礼子内親王の父である後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))が鎌倉幕府2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)の追討を謀って承久の乱(じょうきゅうのらん)を起こしたが、敗北して隠岐国に配流されました。斎王(賀茂斎院)は承久の乱などの混乱などにより、約400年の歴史をもって廃絶しました。
平安時代(794年~1185年)末期には1156年(保元元年)に保元の乱(ほうげんのらん)、1159年(平治元年)に平治の乱(へいじのらん)が起こり、その後斎王(賀茂斎院)がしばしば途絶するようになりました。1171年(嘉応3年)に第33代斎王・頌子内親王が退下したが、1178年(治承2年)に第34代斎王・範子内親王が卜定されるまで約7年ありました。また1181年(養和元年)に第34代斎王・範子内親王が退下し、1204年(元久元年)に第35代斎王・礼子内親王が卜定されるまで約23年もありました。
●礼子内親王は正治2年(1200年)に第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう)と内大臣・坊門信清の娘・坊門局の間に生まれ、後鳥羽天皇の第3皇女でした。1204年(元久元年)に5歳で内親王宣下を受け、准三宮(じゅさんぐう)と斎王(賀茂斎院)に卜定されました。幼少時に祖母・七条院殖子のもとで養育されたと言われています。1205年(元久2年)に左近衛府の初斎院(しょさいいん)に入り、1206年(建永元年)に賀茂斎院(紫野斎院・紫野院)に入りました。しかし1212年(建暦2年)に病気で斎王(賀茂斎院)を退下しました。「明月記」1226年(嘉禄2年)6月13日の条に「今夜依祇園御霊会、行幸四条・壬生嘉陽門院御所云々」と記され、退下後に四条壬生の御所で祖母・七条院殖子とともに住しました。父方の従弟で、母方の再従弟でもある第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう)が度々行幸したと言われています。また母方の坊門家の仏事などの行事に祖母・七条院殖子とともに臨幸しました。1214年(建保2年)に院号宣下を受け、院号・嘉陽門院(かようもんいん)と称しました。1220年(承久2年)5月21日に同母兄・道助入道親王を戒師として出家し、法名は真如性と言いました。1221年(承久3年)に父・後鳥羽上皇が鎌倉幕府2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)の追討を謀って承久の乱(じょうきゅうのらん)を起こしたが、敗北して隠岐国に配流され、母・坊門局も同行したが、礼子内親王は京都に留まりました。同母弟・頼仁親王も備前国へ配流されました。1230年(寛喜2年)に四条壬生の御所が火災で焼失し、一時仁和寺の御所に移りました。なお礼子内親王は1273年(文永10年)9月14日に74歳で亡くなりました。
【最後(第35代)の斎王・礼子内親王と葵祭 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ