葵祭と「延喜式(えんぎしき)」の中祀(ちゅうし)
葵祭と「延喜式(えんぎしき)」の中祀(ちゅうし)
葵祭は807年(大同2年)に勅祭とされました。その後819年(弘仁10年)に嵯峨天皇が中祀に準じて行うようにと勅を下しました。「日本紀略」に「勅、山城国愛宕郡賀茂御祖并に別雷二神之祭、宜く中祀に准ずべし。」と記されています。
★葵祭2025の最新情報
【葵祭日程(要確認)】
葵祭・路頭の儀は例年5月15日に行われます。ただ悪天候の場合、翌16日に順延されます。
葵祭2025日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀
【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来
【葵祭と「延喜式(えんぎしき)」の中祀(ちゅうし)】
葵祭は平安時代前期の807年(大同2年)に第51代・平城天皇(へいぜいてんのう)によって勅祭(ちょくさい)とされました。その後819年(弘仁10年)に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が葵祭を中祀(ちゅうし)に準じて行うようにと勅を下しました。「日本紀略(にほんきりゃく)」819年(弘仁10年)3月16日に「勅、山城国愛宕郡賀茂御祖(下鴨神社)并に別雷(上賀茂神社)二神之祭、宜く中祀に准ずべし。」と記されています。また「延喜式(えんぎしき)」巻一に「凡そ践祚の大嘗祭は大祀と為す。祈年・月次・神嘗・新嘗、賀茂(葵祭)等祭は中祀と為す。大忌・風神・鎮花・三枝・相嘗・鎮魂・鎮火・道饗・園韓神・松尾・平野・春日・大原野等の祭は小祀と為す。」と記され、葵祭は新天皇の即位後に初めて行なう新嘗祭(にいなめさい)で、一世一代の大礼と言われる大嘗祭(だいじょうさい・践祚(せんそ)大嘗祭)の大祀に次ぐ、朝廷にとって重要な祭りに位置付けられました。中祀には祈年祭(としごいのまつり)・月次祭(つきなみのまつり)・神嘗祭(かんなめさい)・新嘗祭が指定され、神社では賀茂社の葵祭と伊勢神宮の祭礼だけが指定されました。ちなみに平安時代前期の律令制では国家の祭祀が大祀(たいし)・中祀・小祀(しょうし)に分けられ、祭礼の前に大祀が1ヶ月間、中祀が3日間、小祀が1日潔斎(けっさい)するものとされました。「神祇令(じんぎれい)」に「凡一月斎為大祀、三日斎中祀、一日斎為小祀」と記されています。なお葵祭は貞観年間(859年~876年)に葵祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀が完成しました。
【「延喜式(えんぎしき)」 葵祭】
「延喜式」は平安時代中期に編纂された律令の施行細則をまとめた格式(法典)です。「延喜式」は905年(延喜5年)に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の勅により、左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)ら11名の委員によって編纂が開始されたが、順調に進まず、927年(延長5年)に藤原忠平ら4名の編纂委員によって撰進(せんしん)され、その後も修訂が続けられ、967年(康保4年)に施行されました。「延喜式」は「弘仁式(こうにんしき)」・「貞観式(じょうがんしき)」やそれ以降の式を取捨し、根本法令を補う施行細則を集大成したものです。「延喜式」は行政上の必要性よりも文化的事業として編集され、記念事業としての意味合いが強かったと言われています。ちなみに「延喜式」は「弘仁式」・「貞観式」とともに三代格式(さんだいきゃくしき)と言われました。「延喜式」は全50巻で、巻1~巻10が神祇官(じんぎかん)関係の式、巻11~巻40が太政官(だいじょうかん)八省関係の式、巻41~巻49がそれ以外の官庁関係の式、巻50が雑式になっています。巻9・10の神名帳が「延喜神名帳」とも言われ、全国の神社が国郡ごとに連記されています。
【「日本紀略(にほんきりゃく)」 葵祭】
「日本紀略」は平安時代後期に編纂された歴史書です。「日本紀略」は「日本紀類」・「日本史類」・「編年紀略」・「日本史紀略」などとも言われています。「日本紀略」は神代から第68代・後一条天皇(ごいちじょう)の1036年(長元9年)までの歴史がまとめられています。「日本紀略」は神代が日本最古の正史「日本書紀」の本文をそのまま用い、初代・神武天皇(じんむてんのう)から第58代・光孝天皇(こうこうてんのう)までが「六国史(りっこくし)」を簡略化し、第59代・宇多天皇(うだてんのう)以後は「新国史」・「外記日記」などの史料による記事によって構成されています。第50代・桓武天皇(かんむてんのう)の命令により、「続日本紀(しょくにほんぎ)」から削除された藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺・早良親王(さわらしんのう)排除の事情が分かります。なお「日本紀略」は著者が不詳です。
【葵祭と「延喜式(えんぎしき)」の中祀(ちゅうし) 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ