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カテゴリー:葵祭(京都)
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賀茂氏(かもし)・乗尻(のりじり)と葵祭
葵祭・賀茂競馬は天下太平と五穀豊穣を祈願する武徳殿の宮中行事が起源だったが、1093年(寛治7年)に堀河天皇が上賀茂神社に移しました。移転直後は乗尻を宮中の殿上人・左右近衛府の武官が奉仕していたが、鎌倉時代に上賀茂神社の氏人に託されました。 -
吉田兼好の「徒然草(つれづれぐさ)」と葵祭
葵祭は清少納言の「枕草子」・鴨長明の「方丈記」とともに「日本三大随筆」に数えられている吉田兼好(兼好法師)の「徒然草」に記されています。ただ「徒然草」に記されているのは例年5月5日に行われている葵祭の前儀・賀茂競馬です。 -
桂昌院(けいしょういん・お玉(おたま))と葵祭
葵祭は室町時代中期の応仁の乱以降に途絶え、1694年(元禄7年)に桂昌院の子・徳川綱吉を中心とする江戸幕府の後援などで約200年振りに復興されました。桂昌院は1698年(元禄11年)に菖蒲蒔絵の伊勢水干・鞍などの馬具20組を奉納しました。 -
織田信長(おだのぶなが)・賀茂競馬(かもくらべうま)と葵祭
葵祭では前儀として賀茂競馬が上賀茂神社で行われています。賀茂競馬は古くから著名な武将も魅了し、「信長公記」によると1578年(天正2年)に織田信長が自らの2頭の馬や馬廻衆の18頭の馬、合計20頭の馬を出し、馬具なども提供し、賀茂競馬を観覧しました。 -
明治天皇・岩倉具視(いわくらともみ)と葵祭
葵祭は1883年(明治16年)に第122代・明治天皇の旧儀復興の勅命により、岩倉具視が葵祭(賀茂祭)旧儀再興を提言し、翌1884年(明治17年)にともに日本三勅祭に数えられた春日大社の春日祭・石清水八幡宮の石清水祭とともに旧儀が復興されました。 -
平城天皇(へいぜいてんのう)・嵯峨天皇(さがてんのう)と葵祭
葵祭は平安時代前期に第51代・平城天皇により、天皇の勅命によって行う勅祭になり、第52代・嵯峨天皇の勅願により、賀茂社に奉仕する賀茂斎院が置かれました。葵祭は平安時代中期に隆盛したが、その基盤となったのが平城天皇と嵯峨天皇です。 -
徳川綱吉・霊元上皇(第112代・霊元天皇)と葵祭
葵祭は江戸時代中期に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉や霊元上皇らにより、約200年振りに復興されした。葵祭は欽明天皇の時代に始まり、平安時代中期に祭りと言うと葵祭を指すほど隆盛したが、応仁の乱以降、約200年間途絶えました。 -
北大路通(アクセス・マップ・歴史・・・)
北大路通が整備された京都市三大事業は京都百年の計として第2代京都市長・西郷菊次郎が推進し、明治時代末期から大正時代初期に第二琵琶湖疏水(第二疏水)開削・上水道整備・道路拡築と市電敷設が行われました。 -
下鴨本通(アクセス・マップ・歴史・・・)
下鴨本通が走る下鴨地域は古来に賀茂氏(かもし)が居住し、氏神として下鴨神社を祀りました。下鴨地域には糺の森が広がり、明治時代までは近郊農村地帯であったが、その後宅地化が進み、現在は高級住宅地になっています。 -
下鴨東通(アクセス・マップ・歴史・・・)
下鴨東通沿いを流れている高野川は高野川(たかのがわ)は京都府と滋賀県の境に位置する標高約382メートルの途中峠南部を源とし、高谷川・呂川・草生川・岩倉川・音羽川などと合流し、鴨川デルタで賀茂川に合流しています。 -
出町橋(アクセス・マップ・歴史・・・)
出町橋近くには賀茂川(鴨川)と高野川の合流点に鴨川デルタがあり、賀茂川と高野川の中に亀や千鳥などの形をした飛び石が配置されています。飛び石は子供の遊び場やテレビドラマなどのロケ地に使われたりしています。 -
丸太町通(アクセス・マップ・歴史・・・)
丸太町通では全長約8.5キロの通り沿いに岡崎神社・京都市武道センター・熊野神社・神宮丸太町駅・丸太町橋・京都御苑・丸太町駅・大極殿跡・京都市中央図書館・円町駅・法金剛院・嵯峨嵐山駅などがあります。