葵祭・賀茂競馬と桂昌院(お玉)

賀茂競馬(Kamo-Kurabeuma)

葵祭・賀茂競馬と桂昌院(お玉)

葵祭は室町時代中期の応仁の乱以降に途絶え、1694年(元禄7年)に桂昌院の子・徳川綱吉を中心とする江戸幕府の後援などで約200年振りに復興されました。桂昌院は1698年(元禄11年)に菖蒲蒔絵の伊勢水干・鞍などの馬具20組を奉納しました。

★葵祭2025の最新情報

【葵祭日程(要確認)】
葵祭・路頭の儀は例年5月15日に行われます。ただ悪天候の場合、翌16日に順延されます。
葵祭2025日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀

【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来

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【葵祭・賀茂競馬と桂昌院(お玉)】
葵祭は欽明天皇の時代(539年~571年)に始まり、平安時代中期に祭りと言うと葵祭を指すほど隆盛したが、鎌倉時代以降に徐々に衰微し、室町時代中期に約10年に渡って戦われた応仁の乱(おうにんのらん)以降に途絶えました。その後江戸時代中期の1694年(元禄7年)に桂昌院(けいしょういん)の子で、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉を中心とする江戸幕府の後援や霊元上皇(第112代・霊元天皇(れいげんてんのう))などの努力によって約200年振りに復興されました。葵祭では前儀として賀茂競馬(かもくらべうま)が上賀茂神社で行われています。賀茂競馬は天下太平と五穀豊穣を祈願する武徳殿(ぶとくでん)の宮中行事(節会)が起源だったが、平安時代後期の1093年(寛治7年)に第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう)が上賀茂神社に移しました。賀茂競馬は古くから著名な武将を魅了し、室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)や織田信長(おだのぶなが)などが馬を出して観覧しました。江戸時代には徳川将軍家が京都所司代を介し、例年2頭の馬を賀茂競馬に奉献しました。桂昌院は異父弟で、常陸国笠間藩初代藩主・本庄宗資(ほんじょうむねすけ)とともに江戸時代中期の1698年(元禄11年)3月27日に菖蒲蒔絵(しょうぶまきえ)の伊勢水干(すいかん)・鞍(くら)などの馬具20組を奉納しました。本庄氏家譜に「右鞍之蒔絵蓬菖蒲香包に致候絵様なり」と記述されています。同年4月27日に上賀茂神社は馬具を破損しないように大事に使用することなどを取り決め、鞍は先代まで大切に使用されていました。賀茂競馬では上賀茂神社が有していた全国20か所の荘園から20頭の馬が献上され、20頭の馬は左方・右方に分かれ、10番の競馬が行われていました。なお菖蒲は古くから邪気祓いに使われ、天皇も宮中の節会で菖蒲蔓(あやめのかずら)を被っていました。賀茂競馬では上賀茂神社の本殿の屋根を菖蒲で葺き、馬は頭、騎手(乗尻)や神職が腰に菖蒲を纏って邪気を祓いました。賀茂競馬では競争前に菖蒲根合の儀が行われ、2人の騎手(乗尻)が菖蒲の根を合わせて大小長短を比べ、その後交換して相手の根を折って勝利を予祝します。
上賀茂神社賀茂競馬

【桂昌院(お玉) 葵祭】
桂昌院(お玉)は1627年(寛永4年)に京都西陣の八百屋・仁右衛門の次女として生まれたとも言われています。また桂昌院は「徳川実紀」によると関白・二条光平の家司・本庄太郎兵衛宗正の娘として生れたとも言われています。その後関白・二条光平の家司・本庄宗正の養女になったと言われています。江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室・六条有純の娘・永光院(お万の方)のゆかりで江戸に下って部屋子として仕えていたが、その後家光の乳母・春日局の目にとまって局の指導を受けました。将軍付きの御中臈になり、家光に見初められて側室になり、1646年(正保3年)1月に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉を生みました。桂昌院は八百屋の娘から家光の側室になり、徳川綱吉を生んだことから「玉の輿」の由来になりました。1651年(慶安4年)に家光が亡くなると落飾して筑波山知足院に入り、1680年(延宝8年)に江戸幕府4代将軍・徳川家綱が亡くなり、子・綱吉が江戸幕府5代将軍になると江戸城三の丸に入りました。1684年(貞享元年)に従三位なり、1702年(元禄15年)に女性最高位の従一位になり、名前・藤原光子(藤原宗子)を賜りました。桂昌院は深く仏教に帰依し、寺院を建立したり、寄進したりしました。また生類憐みの令の起因になったとも言われています。なお桂昌院は1705年(宝永2年)8月11日に亡くなりました。

【葵祭・賀茂競馬と桂昌院(お玉) 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ

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