葵祭と斎王(さいおう)・賀茂斎院
葵祭と斎王(さいおう)・賀茂斎院
斎王は天皇の娘である未婚の内親王または女王から選ばれたが、天皇が譲位・崩御した場合には退下するのが習わしとされていました。斎王は日常的に忌詞(いみことば)などを用いて、不浄・仏事を避け、祭事に奉仕しました。
★葵祭2025の最新情報
【葵祭日程(要確認)】
葵祭・路頭の儀は例年5月15日に行われます。ただ悪天候の場合、翌16日に順延されます。
葵祭2025日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀
【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来
【葵祭と斎王(さいおう)・賀茂斎院】
葵祭に奉仕していた斎王(さいおう・斎院(さいいん))は第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が兄・平城上皇(第51代・平城天皇(へいぜいてんのう))と皇位などを巡って対立し、賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)の祭神・賀茂大神(かものおおかみ)に皇女を賀茂社の神迎えの儀式に奉仕する阿礼少女(あれおとめ)に捧げると祈願し、薬子の変(くすこのへん)で勝利したことが起源になっています。斎王は天皇の娘である未婚の内親王(ないしんのう)または女王(じょうおう)から選ばれたが、天皇が譲位・崩御した場合には退下(たいげ)するのが習わしとされていました。ただ手本となった伊勢神宮(いせじんぐう)の斎宮(さいぐう)と異なり、必ず天皇の代替りごとに交代した訳ではありませんでした。第16代斎王・選子内親王(せんしないしんのう・のぶこないしんのう)は975年(天延3年)から1031年(長元4年)まで天皇5代(第64代・円融天皇(えんゆうてんのう)から第68代・後一条天皇(ごいちじょうてんのう))に渡って57年間も勤め、「大斎院」と称されました。ちなみに賀茂社は伊勢神宮よりも京都に近いこともあり、斎王は伊勢神宮の斎宮よりも重視され、内親王が多く、生母の出自も高い例が多いと言われています。斎王が卜定(ぼくじょう・交代)すると参議(さんぎ)以上の殿上人(てんじょうびと)が天皇の勅使(ちょくし)として派遣され、上賀茂神社・下鴨神社に奉告されました。その後御所内の初斎院(しょさいいん)と言われる居所が設けられ、3年間日々潔斎(けっさい)し、毎月朔日(ついたち)に賀茂大神を遥拝する生活を送りました。3年経過した4月上旬の吉日に賀茂斎院(かもさいいん)に入り、賀茂川(かもがわ)で御禊(ぎょけい)を行った後に初めて祭事に奉仕することが許されました。斎王は日常的に不吉な意味持つ言葉を避けて忌詞(いみことば)などを用いて、不浄・仏事を避けて清浄な生活を送り、賀茂社や賀茂斎院で祭事に奉仕しました。忌詞では死は直(なほる)、病気は息(やすみ)、泣は鹽垂(しおたれ)、血は汗(あせ)、宍(しし・肉)は菌(くさひら・野菜)、打は撫(なづ)、墓は壌(つちくれ)などと言ったそうです。
斎王は旧暦4月の2番目の酉(とり)の日に行われていた葵祭に先立って、午(うま)または未(ひつじ)の日に賀茂斎院から賀茂川の河原に赴き、身を清める御禊を行いました。ちなみに斎王の御禊は紫式部(むらさきしきぶ)作の「源氏物語(げんじものがたり)」に光源氏(ひかるげんじ)の正室・葵の上と光源氏の恋人の一人・六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の車争いでよく知られています。
斎王は葵祭当日に御所車で賀茂斎院を出御され、勅使などの行列と一条大路で合流し、先ず下鴨神社に参向し、糺の森(ただすのもり)・賀茂川(鴨川)近くの神館(こうだて)に入り、河原に設けられた行宮(かりのみや)で河原祓を行いました。その後上賀茂神社に参向し、本殿右座に着座して祭儀が行われました。その夜は上賀茂神社の御阿礼所(みあれしょ)前の神館に宿泊し、翌日賀茂斎院に戻りました。その後宮中では勅使らを召して宴が行われ、賀茂斎院でも同様の還立の儀(かえりだちのぎ)が行われていました。ちなみに斎王の賀茂斎院への還御(かんぎょ)は清少納言(せいしょうなごん)作の「枕草子(まくらのそうし)」に見物に値する行事と記されています。
【賀茂斎院 葵祭】
賀茂斎院(紫野斎院・紫野院)は現在、櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)が祀られている場所にありました。賀茂斎院は約150メートル四方で、内院と外院がありました。内院には斎王の寝殿(しんでん)や上賀茂神社・下鴨神社の賀茂大神を祀る神殿・汗殿・対屋・客殿などがありました。外院には事務などを担当する斎院司(さいいんし・いつきのみやのつかさ)・蔵人所(くろうどどころ)・武者所・大炊殿(おおいどの)などが置かれ、長官・官人・内侍(ないし)・女嬬(にょじゅ・めのわらわ)などが仕えていました。ちなみに2001年(平成13年)に賀茂斎院跡顕彰会が石碑を建立しました。なお櫟谷七野神社は859年(貞観元年)に第55代・文徳天皇(もんとくてんのう)の后・染殿皇后(そめどのこうごう・藤原明子(ふじわらのめいし))が安産を祈願し、奈良・春日大社を勧請したのが起源とも言われています。その後応仁の乱で荒廃し、戦国時代に織田信長(おだのぶなが)が化野ヶ原に再建し、桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命によって現在の場所に移されました。
【葵祭と斎王(さいおう)・賀茂斎院 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ