
葵祭と清少納言「枕草子(まくらのそうし)」
葵祭は清少納言が記した「枕草子」にも描かれています。「枕草子」には「見物は臨時の祭。行幸。祭の帰さ。御賀茂詣。」と記され、見物に値する行事は石清水臨時祭と賀茂臨時祭・天皇の行幸・斎王の還御・摂政関白の賀茂詣と記しています。
★葵祭2024の最新情報・ニュース
【葵祭日程(要確認)】
葵祭・路頭の儀は例年5月15日に行われます。ただ悪天候の場合、翌16日に順延されます。
葵祭2024日程(時代行列・流鏑馬神事・・・)
●葵祭路頭の儀では人約500名・馬約40頭・牛4頭・牛車2台・輿(こし)1丁などの時代行列が巡行します。
葵祭路頭の儀
【葵祭 歴史・簡単概要】
葵祭(あおいまつり)は古墳時代後期の欽明天皇の時代(539年~571年)に京都をはじめ全国が風水害に見舞われて飢餓・疫病が流行し、賀茂大神(上賀茂神社・下鴨神社)の崇敬者・卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ賀茂大神の祟りであると奏した為、4月吉日を選んで、馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)を被り、駆競(くち・かけくらべ)して盛大に祭りを行ったことが起源です。その後819年(弘仁10年)に律令制度の中で最も重要な恒例祭祀(中祀)に準じて行われる国家的行事になり、平安時代中期に祭りと言えば、葵祭のことをさすほど隆盛を極めました。
葵祭歴史年表・由来
【葵祭と清少納言「枕草子(まくらのそうし)」】
葵祭は平安時代中期に清少納言(せいしょうなごん)が記した「枕草子(まくらのそうし)」にも描かれています。「枕草子」には「見物は臨時の祭。行幸。祭の帰さ(還さ)。御賀茂詣。」と記され、見物に値するすばらしい行事は石清水臨時祭(いわしみずりんじさい)と賀茂臨時祭(かもりんじさい)・天皇の行幸(ぎょうこう)・葵祭翌日の斎王(さいおう)の還御(かんぎょ)・葵祭前日の摂政関白(せっしょうかんぱく)の賀茂詣(かももうで)と記しています。清少納言は葵祭の中で、路頭の儀(ろとうのぎ・時代行列)・社頭の儀(しゃとうのぎ)よりも現在は見ることができない賀茂臨時祭・葵祭前日の摂政関白の賀茂詣・葵祭翌日の斎王の還御が好きだったのかもしれません。「枕草子」には「まつりのかへさ(祭の帰さ(還さ))見るとて、雲林院・知足院などのまへに車を立てたれば」とも記されています。なお「今昔物語」には頼光四天王に数えられた坂田公時ら3人が斎王の還御を見物しようと野暮な馬や徒歩を避け、慣れない牛車で出掛けたが、車酔いで牛車の中で眠ってしまい、目が覚めた時には行列は過ぎていて、あとの祭りだった。」ということが記され、斎王の還御が人気で、現在の斎王代と同様に斎王がヒロインだったのかもしれません。
賀茂臨時祭は第59代・宇多天皇が天皇即位前に賀茂大神(賀茂社)から葵祭の他に秋に幣帛を奉るようにしてほしいという託宣を受けたが、自分は地位が低く託宣に応えることができないと答えると賀茂大神から託宣に応えられる地位に就けると言われました。その後887年(仁和3年)に天皇に即位し、889年(寛平元年)に初めて賀茂臨時祭を行い、以後11月に行われるようになりました。平安時代中期以降に盛大に行われていたが、葵祭と同様に応仁の乱後に途絶え、1814(文化11年)に再興されたが、1870年(明治3年)に神祇官の通達によって廃止されました。
葵祭前日の摂政関白の賀茂詣は葵祭の前日に摂政・関白が賀茂社に参詣しました。賀茂詣は夏の季語になっています。
葵祭翌日の斎王の還御は葵祭の翌日に斎王が賀茂社の神館から紫野の斎院御所に還りました。斎王は葵祭当日に御所車で斎院御所を出御し、勅使などの行列と一条大路で合流し、下鴨神社・上賀茂神社にの順に参向し、その夜は上賀茂神社の御阿礼所前の神館に宿泊し、翌日に斎院御所に戻っていました。なお斎王は平安時代前期の810年(弘仁元年)から鎌倉時代の1212年(建暦2年)まで賀茂社に仕え、葵祭に奉仕しました。
【清少納言 葵祭】
清少納言は966年(康保3年)頃に梨壺の五人に数えられた歌人・清原元輔の娘として生れたとも言われています。清原家は祖父・清原深養父も清少納言と同様に中古歌仙三十六人に数えられる和歌重代の家柄でした。清少納言は和漢の才をもった早熟な少女として育ち、974年(天延2年)に父が周防守に任じられた際に同行したと言われています。981年(天元4年)頃に陸奥守・橘則光と結婚し、翌982年(天元5年)に子・橘則長を産んだが、まもなく武骨な夫と離婚しました。991年(正暦2年)頃に摂津守・藤原棟世と再婚し、娘・小馬命婦を産んだが、その後別居したと言われています。993年(正暦4年)冬頃から関白・藤原道隆の娘で、第66代・一条天皇の中宮・藤原定子に仕えたが、漢詩文の教養と機知によって宮廷で名をはせたが、1000年(長保2年)に中宮・藤原定子が出産時に亡くなると宮仕えを辞めました。その後藤原棟世の任地である摂津に下ったと言われています。1001年(長保3年)頃に「枕草子」が完成したと言われています。「枕草子」は紫式部作の「源氏物語」とともに平安女流文学の双璧と言われています。ちなみに清少納言は「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に15首が入集され、「清少納言集」も残されています。なお清少納言は1025年(万寿2年)頃に亡くなったとも言われています。
【葵祭と清少納言「枕草子(まくらのそうし)」 備考】
*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
葵祭見どころ