京都刀剣ゆかりの地(粟田神社・建勲神社・・・)

粟田神社

京都刀剣ゆかりの地

京都刀剣ゆかりの地には粟田神社(一期一振・秋田藤四郎・三日月宗近)・花山稲荷神社(小狐丸)・北野天満宮(髭切)・建勲神社(宗三左文字)・大覚寺(膝丸)・豊国神社(骨喰藤四郎)・藤森神社(鶴丸国永)・本能寺(不動行光・薬研藤四郎)や二条城(陸奥守吉行)・壬生寺(長曽祢虎徹・堀川国広・和泉守兼定)などがあります。なお京都刀剣ゆかりの地は京都刀剣御朱印めぐりの場所になったり、刀剣乱舞-ONLINE- 京の軌跡スタンプラリー弐で紹介されたりしています。

【粟田神社 歴史・簡単概要】
粟田神社(あわたじんじゃ)は起源が明確ではありません。粟田神社は古代の豪族・粟田氏が氏神として祀ったのが起源とも言われています。また粟田神社は876年(貞観18年)に第56代・清和天皇が兵火や疫病に対する勅を発し、全国の諸神にお供えをして、国家と民の安全を祈願させた際、大己貴命(おおなむちのみこと)からの神告により、八坂神社の祭神・素戔鳴尊(牛頭天王)に縁があるに現在の場所に造営されたとも言われています。勅使・藤原興世が7日7晩八坂神社で祈願した際、満願の夜に老翁が枕物に立ち、「我を祀れば、必ず国家と民は安全なり」と告げられたことから朝廷に奏上し、勅命によって社殿を造営して、大己貴命・素戔鳴尊を祀ったとも言われています。
●一期一振(いちごひとふり)は鎌倉時代中期に粟田口吉光(藤四郎)が造刀しました。一期一振の名称は粟田口吉光が短刀を多く造刀し、太刀は一期一振しか造刀しなかったことに由来しています。
●秋田藤四郎(あきたとうしろう)は粟田口吉光(藤四郎)が造刀しました。秋田藤四郎の名称はかつて関白・豊臣秀吉に仕えた秋田城介(秋田実季)が所有していたことに由来しています。
●三日月宗近(みかづきむねちか)は平安時代に三条宗近が造刀し、天下五剣(てんがごけん)に数えられています。三日月宗近の名称は刀身に三日月形の打除け(うちのけ)が多くみられることに由来しているそうです。
粟田神社(アクセス・見どころ・・・)

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【花山稲荷神社 歴史・簡単概要】
花山稲荷神社(かざんいなりじんじゃ)・花山神社(かざんじんじゃ)は903年(延喜3年)醍醐天皇の勅命により、造営されたと言われています。その後花山天皇が篤く崇敬した為、花山稲荷神社と言われるようになりました。988年(永延2年)に一条天皇、1174年(承安4年)には平清盛の嫡子・重盛が社殿を再建しました。しかし1183年(寿永2年)の放火によって社殿を焼失しました。貞和年間に一色六郎定員が勧進し、社殿を再建し、1701年(元禄14年)には大石内蔵助の義兄・進藤源四郎の寄進により、現在の本殿が造営されました。
●小狐丸(こぎつねまる)は平安時代に三条宗近が造刀しました。三条宗近は花山稲荷神社に参籠して完成させたとも言われています。なお小狐丸は三条宗近の氏神・稲荷明神が童子に化けてともに造刀したとも言われています。
花山稲荷神社(アクセス・見どころ・・・)

【北野天満宮 歴史・簡単概要】
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は947年(天暦元年)に西ノ京に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ)・近江比良宮の神主である神良種(みわのよしたね)・北野朝日寺の僧である最珍(さいちん)らが神殿を造営し、祭神・菅原道真(すがわらのみちざね)を祀ったのが起源です。その後道真の左遷の原因になった左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)の甥・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が私邸を寄贈し、大規模な社殿が造営され、987年(永延元年)に第66代・一条天皇が勅使を派遣して国家の平安を祈願する勅祭が行われ、神号「北野天満宮天神」を賜り、1004年(寛弘元年)には一条天皇が行幸しました。
●髭切(ひげきり)は平安時代に源満仲が造刀させました。髭切は罪人の首をはねた際、髭まで断ち切った切れ味に由来しています。また髭切は一条戻り橋で源頼光の四天王のひとり渡辺綱が鬼を切ったことから鬼切丸とも言われています。
北野天満宮(アクセス・見どころ・・・)

【建勲神社 歴史・簡単概要】
建勲神社(たけいさおじんじゃ・けんくんじんじゃ)・建勲さんは1869年(明治2年)明治天皇が戦国時代の天下統一や朝儀復興などの事業を進めた織田信長(おだのぶなが)の偉勲を称える為、健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建を決定したのが起源です。翌年1870年(明治3年)明治天皇から神号・建勲神社を賜り、1875年(明治8年)に別格官幣社に列せられ、船岡山を賜りました。その後1880年(明治13年)に新たな社殿を造営して、信長の嫡子・信忠(のぶただ)を配祀し、1910年(明治43年)には船岡山の山麓から山頂に移りました。なお建勲神社の前身は信長の子孫で、天童藩知事・織田信敏の東京邸内に造営された建勲社(たけいさおしゃ)です。
●宗三左文字(そうざさもんじ)は南北朝時代に造刀されました。宗三左文字の名称はかつて三好宗三(三好政長)が所有していたことに由来します。なお宗三左文字は三好左文字・義元左文字などとも言われます。
建勲神社(アクセス・見どころ・・・)

【大覚寺 歴史・簡単概要】
大覚寺(だいかくじ)・旧嵯峨御所大本山大覚寺(きゅうさがごしょだいほんざんだいかくじ)は平安時代初期に第52代・嵯峨天皇が造営した離宮・嵯峨院があった場所です。嵯峨院では真言宗の宗祖である弘法大師・空海が嵯峨天皇の信任を得て、空海が自ら刻んだと言われている五大明王を安置する堂を建立して修法を行いました。876年(貞観18年)に嵯峨天皇の皇女で、第53代・淳和天皇の皇后・正子内親王(まさこないしんのう)が淳和天皇の第2皇子・恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどうしんのう・恒貞親王)を開山として離宮を寺院に改めて門跡寺院になり、第56代・清和天皇から寺号・大覚寺を賜ったと言われています。
●膝丸(ひざまる・薄緑)は平安時代に源満仲が造刀させました。膝丸は罪人で試し切りをした際、一度に両膝を切り離したことに由来しています。
大覚寺(アクセス・見どころ・・・)

【豊国神社 歴史・簡単概要】
豊国神社(とよくにじんじゃ)は1598年(慶長3年)に亡くなり、火葬されることなく、伏見城内に安置されていた関白・豊臣秀吉の遺体が遺命により、東山阿弥陀ヶ峰に葬られ、その麓に廟所が建立されたのが起源です。その後豊臣家が滅亡すると徳川家康が後水尾天皇の勅許を得て、秀吉の神号「豊国大明神」を剥奪し、豊国神社を取り壊して、秀吉の霊を方広寺大仏殿裏手南東に建てた五輪石塔に移しました。
●骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)は鎌倉時代中期に粟田口吉光(藤四郎)が造刀しました。骨喰藤四郎の名称は斬るまねをするだけで、骨まで砕かれるほどの切れ味に由来するそうです。なお骨喰藤四郎は元々長刀(なぎなた)だったそうです。
豊国神社(アクセス・見どころ・・・)

【藤森神社 歴史・簡単概要】
藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は起源が明確ではありません。藤森神社は社伝によると203年(神功皇后摂政3年)神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐(さんかんせいばつ)から凱旋した際、軍旗や武具を埋めて塚を造ったのが起源と言われています。その後816年(弘仁7年)に伏見稲荷大社の社殿が稲荷山から現在の場所に造営されたことから現在の場所に移ったとも言われています。なお神功皇后は仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后とされています。
●鶴丸国永(つるまるくになが)は平安時代に国永が造刀しました。鶴丸の名称はかつて鶴丸国永が収められていた太刀拵(たちごしらえ)に鶴の蒔絵が施されていたことに由来します。
藤森神社(アクセス・見どころ・・・)

【本能寺 歴史・簡単概要】
本能寺(ほんのうじ)は1415年(応永22年)に日隆聖人(にちりゅうしょうにん)が妙本寺(みょうほんじ)5世・月明上人と対立して妙本寺(後の妙顕寺(みょうけんじ))を去り、油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を創建したのが起源です。その後妙本寺5世・月明上人によって破却され、日隆聖人は河内三井の本厳寺(ほんごんじ)・兵庫尼崎の本興寺(ほんこうじ)に移ったが、1429年(永享元年)に小袖屋宗句(山本宗句)の援助によって西陣付近に再建され、1433年(永享5年)に如意王丸を願主に六角大宮に本能寺を建立しました。1536年(天文5年)の天文法華の乱によって焼失し、1545年(天文14年)に第12代貫首・日承聖人(にちじょうしょうにん)が四条西洞院に再建しました。1582年(天正10年)の明智光秀による本能寺の変によって焼失し、1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉の命によって現在の場所に移り、第14代貫首・日衍聖人(にちえんしょうにん)が再建しました。1788年(天明8年)の天明大火で焼失し、1840年(天保11年)に第77代貫首・日恩聖人(にちおんしょうにん)が再建したが、1864年(元治元年)の蛤御門の変(はまぐりごもんのへん・禁門の変(きんもんのへん))でも焼失し、1928年(昭和3年)に現在の本堂が再建されました。
●薬研藤四郎(やげんとうしろう)は鎌倉時代中期に粟田口吉光(藤四郎)が造刀しました。薬研藤四郎の名称は室町幕府管領・畠山政長が自害する際、何度やっても腹に刺さらず、腹を立てて投げつけたところ薬研を貫いて突き刺さったことに由来しています。薬研は薬草などを細かくする道具です。
●不動行光(ふどうゆきみつ)は鎌倉時代に藤三郎行光が造刀しました。不動行光の名称は櫃の中に不動明王と眷属である矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制多迦童子(せいたかどうじ)が浮彫されていることに由来しています。
本能寺(アクセス・見どころ・・・)

【二条城 歴史・簡単概要】
二条城(にじょうじょう)・元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)はかつて禁苑(宮中の庭)だった神泉苑(しんせんえん)の一部で、内裏も造営された場所でした。その後1601年(慶長6年)江戸幕府初代将軍・徳川家康が京都御所の守護・将軍の宿泊所として築城を開始し、西国諸大名に費用と労務を割り当てました。1603年(慶長8年)に本丸御殿(二の丸御殿)が完成し、伏見城での将軍宣下の後に家康が入城し、重臣・公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行いました。
●二条城・二の丸御殿では土佐ゆかりの坂本龍馬・後藤象二郎が関わった大政奉還が行われたことから土佐吉行とも言われた刀工・陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)ゆかりの地とされているようです。
二条城(アクセス・見どころ・・・)

【壬生寺 歴史・簡単概要】
壬生寺(みぶでら)は991年(正暦2年)園城寺(三井寺)の僧・快賢僧都(かいけんそうず)が母の為に創建しました。壬生寺は当初地蔵院・宝幢三昧寺などと言われていました。その後融通念仏の円覚上人が再興し、「大念仏狂言」を始めたと言われています。1863年(文久3年)新選組(壬生浪士組)が結成され、壬生寺東門前の坊城通の八木邸・前川邸・南部邸が屯所と定められ、境内は新選組の兵法調練場として使われました。
●壬生寺では結成された新選組の近藤勇(長曽祢虎徹)・土方歳三(和泉守兼定・堀川国広)・沖田総司(大和守安定・加州清光)などの隊士が所有した刀剣から長曽祢虎徹(ながそねこてつ)・和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)・堀川国広(ほりかわくにひろ)・大和守安定(やまとのかみやすさだ)・加州清光(かしゅうきよみつ)ゆかりの地とされているようです。
壬生寺(アクセス・見どころ・・・)

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