城南宮城南流鏑馬祭/5/(日程・時間・・・)
城南宮城南流鏑馬祭
城南流鏑馬祭2016(日程時間・・・)を紹介しています。城南流鏑馬祭は3年に1度行われています。城南流鏑馬祭は東西に伸びる石畳の参道に砂を盛って設けられた約200メートルの馬場に置かれた約60センチ角の3つの的を射ます。なお3つの的には天下泰平・五穀豊穣・国家安泰の意味が込められています。
【城南流鏑馬祭2016 日程時間(要確認)】
城南流鏑馬祭2016は2016年5月28日(土曜日)14:00から行われます。
【城南流鏑馬祭2016・城南宮 アクセス・マップ】
場所・・・京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町7
最寄の駅・・・竹田駅(徒歩約15分)
路線は次の通りです。
*京都駅からは近鉄京都線
【城南流鏑馬祭 歴史・簡単概要】
城南宮城南流鏑馬祭(じょうなんやぶさめさい)は1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えを名目に西面の武士などを招集したことに由来しています。後鳥羽上皇と鎌倉幕府の間では武者揃えをきっかけに承久の乱(じょうきゅうのらん)が起こり、北条泰時が京都を制圧し、後鳥羽上皇が敗北して隠岐に流されたことから流鏑馬は途絶えました。ちなみに城南宮の祭礼・城南祭では平安時代後期に神輿の巡行だけでなく、流鏑馬や競馬(くらべうま)も行われていたそうです。なお城南流鏑馬祭は2005年(平成17年)に倭式騎馬会(わしききばかい)が約800年振りに再興させ、現在は3年に1度行われています。
城南流鏑馬祭では先ず祝詞奏上などの神事が行われ、神職が倭式騎馬会の射手に的中守(てきちゅうまもり)を授与します。神事終了後、東西に伸びる石畳の参道に砂を盛って設けられた約200メートルの馬場に移動し、先ず鏑矢(かぶらや)で邪気を祓う天地人三才之儀(てんちじんさんさいのぎ)・馬に乗りながら馬場を清める清めの儀・長槍を持って疾走する武芸奉納などが行われます。その後馬場に設置された約60センチ角の3つの的を射る流鏑馬が行われます。ちなみに3つの的には天下泰平・五穀豊穣・国家安泰の意味が込められ、的に矢が当たると祈願成就とされるそうです。
流鏑馬は矢継ぎ早に鏑矢(かぶらや)で射ることから流鏑馬と言われるそうです。また流鏑馬は矢馳馬(やはせむま)が転訛したものとも言われているそうです。なお城南宮では1096年(永長元年)4月29日に流鏑馬が行われ、その際流鏑馬の名称が最初に使われたとも言われているそうです。その為城南宮は流鏑馬発祥の地とも言われているそうです。ちなみに流鏑馬の記述は藤原忠実の日記・中右記に記されています。
【城南宮 歴史・簡単概要】
城南宮(じょうなんぐう)は第14代・仲哀天皇の皇后・神功皇后(じんぐうこうごう)による三韓征伐の際に船上に立てた旗とともに神功皇后・大国主神(八千戈神)を祀った真幡寸神社(まはたきじんじゃ)が起源と言われています。その後794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇による平安京遷都の際に国土の安泰と都の守護を祈願し、国常立尊(くにのとこたちのみこと)が併祀され、城南神と言われるようになりました。平安時代後期に白河上皇(第72代・白河天皇)が鳥羽離宮(城南離宮)を造営し、院政を始めたことから離宮の一部になりました。その後御所の裏鬼門を守る神となったが、応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))などの兵火によって荒廃し、江戸時代に復興されました。なお1876年(明治10年)に名称を真幡寸神社に改めたが、1968年(昭和43年)に名称を城南宮に戻し、真幡寸神社は境内摂社として、新たな社殿が造営されました。
*参考・・・城南宮(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
【城南流鏑馬祭2016 備考】*イベントの情報(日程・場所・内容など)は必ず主催者に確認して下さい。当サイトの情報はあくまで参考情報です。イベントの内容などが変更になっている場合もあります。
城南宮(アクセス・見どころ・歴史概要・・・)情報