六波羅蜜寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

六波羅蜜寺

六波羅蜜寺の歴史を時代別年表で紹介。

六波羅蜜寺の歴史を簡単にまとめています。六波羅蜜寺は951年(天暦5年)に第60代・醍醐天皇の第2皇子で、市聖とも言われる空也上人が自ら刻んだ十一面観音像を道場に安置したのが起源とも言われています。なお六波羅蜜寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(地蔵菩薩)】

★六波羅蜜寺が建立されていた場所は地蔵菩薩(じぞうぼさつ)を安置する小堂宇があったとも言われています。

【六波羅蜜寺創建(起源・由来)】

★六波羅蜜寺は平安時代中期の951年(天暦5年)に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の第2皇子で、市聖(いちひじり)とも言われる空也上人(くうやしょうにん)が自ら刻んだ十一面観音(じゅういちめんかんのん)像を道場に安置したのが起源とも言われています。六波羅蜜寺は当初、西光寺(さいこうじ)と称したと言われています。空也上人は京都で流行していた悪疫退散の為、自ら十一面観音像を刻み、車の上に安置して市中を曵き回し、青竹を八葉の蓮片のように割り、お茶を立てて、その中に小さい梅干と結昆布を入れ、仏前に献じたお茶を病者に授け、歓喜踊躍(かんぎゆやく)しながら念仏を唱えて、病魔を鎮めたと言われています。なお六波羅蜜寺では現在も皇服茶が伝わり、正月三日間授与しています。
★六波羅蜜寺は空也上人の祈願文によると963年(応和3年)8月に名僧600名を招き、「金字大般若経(だいはんにゃきょう)」を浄写して転読し、夜に五大文字を灯し、大萬灯会(だいまんとうえ)を行って諸堂の落慶供養を行ったのが起源とも言われています。鴨川(かもがわ)東岸に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を安置する仮仏殿を建立し、大般若経供養会(くようえ)が行われたとも言われています。なお鴨川の川岸は遺体の捨て場で、葬送の場だったと言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★972年(天禄3年)に空也上人は亡くなりました。
★977年(貞元2年)に空也上人の高弟で、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の僧・中信上人(ちゅうしんしょうにん)が中興し、規模を拡大して天台別院として栄え、名称を六波羅蜜寺に改めました。六波羅蜜寺の六原は地名に由来しています。
★1000年(長保2年)に第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の皇后・定子が亡くなり、六波羅蜜寺で葬送が行われたと言われています。
★1025年(万寿2年)に右大臣・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が増師に命じ、百寺金鼓を打たせたと言われています。
★平安時代後期に北面武士・平正盛(たいらのまさもり)が六波羅蜜寺近くに阿弥陀堂(常光院)を建立しました。その後平正盛の子・平忠盛(たいらのただもり)が六波羅蜜寺の塔頭(たっちゅう)に軍勢を駐屯させ、平忠盛の子・平清盛(たいらのきよもり)、平清盛の子・平重盛(たいらのしげもり)らが広大な境内に平家一門の邸館・六波羅殿(ろくはらどの)を構え、その建物の数が5,200余りに及びました。
★1178年(治承2年)に第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)の皇后・平徳子(たいらのとくこ・建礼門院(けんれいもんいん))の安産祈願の為に不断の読経が行われたと言われています。
★1183年(寿永2年)に源平の兵火によって平家が都落ちした際、本堂を除く、諸堂が焼失しました。
★平安時代後期以降から室町時代に六波羅蜜寺が地蔵堂と言われ、地蔵信仰によって地蔵菩薩(じぞうぼさつ・鬘掛地蔵(かつらかけじぞう))が信仰され、六原の地蔵堂とも言われました。鬘掛地蔵は平安時代に造仏され、「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」に説話が取り上げられています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★1185年(元暦2年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が京都守護の為、六波羅屋敷に置き、平氏の残党狩りや市中警護を行ないました。
★1190年(建久元年)に源頼朝が上洛し、六波羅の邸に着きました。
★鎌倉時代前期に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)が六波羅蜜寺を再興しました。
★1221年(承久3年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))が鎌倉幕府執権・北条義時(ほうじょうよしとき)に対して討伐の兵を挙げた承久の乱(じょうきゅうのらん)が起こり、その後六波羅蜜寺近くに六波羅探題(ろくはらたんだい)が置かれました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

★1333年(元弘3年・正慶2年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(だいごてんのう)の命により、千種忠顕・赤松則村が攻撃し、六波羅探題が焼失しました。
★1335年(建武2年・建武2年)に六波羅蜜寺は三十三ヶ所観音に数えられたと言われています。
★1350年(正平5年・貞和6年)頃に地蔵堂が焼失したと言われています。
★南北朝時代に室町幕府2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)が六波羅蜜寺を再興しました。
★1363年(正平18年・貞治2年)に現在の本堂が建立されました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★室町時代に西国三十三所の札所になり、観音霊場として栄えたと言われています。
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、本堂以外の伽藍が焼失したと言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

★文禄年間(1593年~1596年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が方広寺(ほうこうじ)の大仏を建立した際、本堂を補修し、現在の向拝(こうはい)が設けられました。また豊臣秀吉は寺領70石を安堵しました。この時に六波羅蜜寺が真言宗(しんごんしゅう)智山派(ちさんは)の総本山・智積院(ちしゃくいん)の末寺となった言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1614年(慶長19年)に本堂が修造された言われています。
★1615年(慶長20年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が寺領70石を安堵しました。同年に井伊家が鐘楼を寄進しました。
★寛文年間(1661年~1673年)に鬘掛地蔵が第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)の命により、僧・宝山が選んだ48か寺の地蔵尊に数えられました。
★1711年(宝永8年)に六波羅蜜寺は寺領が70石で、本堂・開山堂・地蔵堂・十輪院などの伽藍があり、末寺が10か寺があった言われています。
★江戸時代に六波羅蜜寺は西国三十三所の札所として栄え、江戸時代まで大伽藍を構えていました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)・上知などにより、境内が縮小されました。六波羅蜜寺は明治時代以降に荒廃し、周囲に民家が建ち並ぶようになりました。
★1976年(昭和51年)に本尊が60年振りに開帳されました。
★1969年(昭和44年)の六波羅蜜寺開創1,000年を記念し、本堂が解体修理されました。

【空也上人:六波羅蜜寺開山】

空也上人は903年(延喜3年)に第60代・醍醐天皇の皇子として生まれたとも言われています。また第54代・仁明天皇の皇子・常康親王の子として生まれたとも言われています。922年(延喜22年)頃に尾張国分寺で出家し、空也と名乗りました。若い頃から播磨・四国・奥羽など諸国を行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えながら道路・橋・井戸を造ったり、寺院を建立したりしました。938年(天慶元年)以降は京都で念仏を広め、948年(天暦2年)に第15世天台座主・延昌のもとに受戒し、号・光勝を授かり、貴族にも布教しました。951年(天暦5年)に悪疫退散の為、自ら十一面観音を刻み、車に乗せて市中を曳き廻したと言われています。また6尺の梵天像・帝釈天像・四天王像も造仏しました。応和年間(961年~964年)に六波羅蜜寺の前身である西光寺を創建しました。963年(応和3年)に鴨川の河原で金字大般若経供養会を大々的に修しました。空也上人は口称念仏の祖で、道路・橋・井戸の整備や遺棄された骸を荼毘にするなどの社会事業を行い、市聖・市上人・阿弥陀聖とも言われました。なお空也上人は972年(天禄3年)に亡くなりました。

【六波羅蜜寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・六波羅蜜寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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