六道珍皇寺歴史-修学旅行・観光ポイント
六道珍皇寺の時代別年表と重要人物
六道珍皇寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。六道珍皇寺は延暦年間(782年~805年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海の師で、大安寺の住持・慶俊が創建し、愛宕寺と言われたのが起源とも言われています。なお六道珍皇寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(鳥辺野・六道の辻)】
★六道珍皇寺が建立されている場所一帯は化野(あだしの)・蓮台野(れんだいの)とともに平安京三大葬送地に数えられた鳥辺野(とりべの・鳥部野)の入口にあたり、現世と冥界の境界に位置すると考えられ、「六道の辻(ろくどうのつじ)」と言われていました。「六道の辻」は松原通(旧・五条通)沿いの六道珍皇寺・西福寺付近とされています。ちなみに「六道の辻」の名称は古くは「古事談」にも見え、鳥辺野が中世以来、冥土への通路として世に知られていました。なお「六道」は地獄道(じごくどう)・餓鬼道(がきどう)・畜生道(ちくしょうどう)・修羅道(しゅらどう)・人道・天道の六種の冥界を表し、人は因果応報により、死後に六道を輪廻転生(りんねてんせい)するとされています。六道珍皇寺の本堂背後の庭に小野篁(おののたかむら)が冥界への往路に利用した冥土通いの井戸があります。
【六道珍皇寺創建(起源・由来)】
★六道珍皇寺は奈良時代末期から平安時代初期の延暦年間(782年~805年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の師で、奈良・大安寺(だいあんじ)の住持・慶俊(けんしゅん)が創建し、愛宕寺(おたぎでら)と言われたのが起源とも言われています。
★六道珍皇寺は「叡山記録(えいざんきろく)」などによると弘法大師・空海が創建したとも言われています。また六道珍皇寺は「伊呂波字類抄」・「今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)」などによると公卿で、閻魔王宮の役人(閻魔庁における第二の冥官)とも言われた小野篁が創建したとも言われています。「伊呂波字類抄」・「今昔物語集」によると愛宕寺が珍皇寺と念仏寺に分かれたとも言われています。更に六道珍皇寺は東山・阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)(鳥辺山)山麓一帯に住していた鳥部氏(とりべし)が創建し、鳥部寺とも言われた宝皇寺(ほうこうじ)の後身とも、「東寺百合文書」の「山城国珍皇寺領坪付案」によると平安時代前期の836年(承和3年)に豪族・山代淡海(やましろのおおえ)らが国家鎮護の道場として創建したとも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
★850年(嘉祥3年)に六道珍皇寺が「日本文徳天皇実録」によると77箇寺に数えられたと言われています。
★858年(天安2年)に金堂・礼堂が焼失し、その後再建されたと言われています。
★文慶年間(966年~1046年)に千観内供(せんかんないぐ)が六道珍皇寺を中興したと言われています。
★平安時代中期に六道珍皇寺が「延喜式(えんぎしき」内蔵寮式に5月5日に菖蒲を供える15箇寺に数えられたと言われています。
★平安時代中期に藤原道長(ふじわらのみちなが)の日記「御堂関白記(みどうかんぱくき)」1004年(長保6年)3月12日条に六道珍皇寺が「珎光寺(ちんこうじ)」として記されていると言われています。
★永久年間(1113年~1118年)に焼失したと言われています。その後も焼失と再建を繰り返したと言われています。
★1173年(承安3年)に三重塔の落慶供養が行われたと言われています。
★平安時代・鎌倉時代に六道珍皇寺は東寺(とうじ)真言宗の総本山・東寺(教王護国寺(きょうおうごこくじ))の末寺で、多くの寺領と伽藍を有していたと言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
★1364年(正平19年・貞治3年)に臨済宗(りんざいしゅう)建仁寺派の大本山・建仁寺(けんにんじ)住持・聞渓良聡(もんけいりょうそう)が六道珍皇寺を再興し、真言宗から臨済宗に改められました。建仁寺の塔頭(たっちゅう)・大昌院が住持を兼ねたと言われています。
★南北朝時代以降に六道珍皇寺の寺領の多くが建仁寺に移されたり、兵火に見舞われたりし、六道珍皇寺は衰退したと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
★1469年(応仁3年)に六道珍皇寺が建仁寺とともに焼失したと言われています。
★1509年(永正6年)に建仁寺の塔頭・大昌院が六道珍皇寺の余地を買得し、堂塔を移したとも言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
★明治時代に六道珍皇寺は建仁寺に一時併合されたが、1910年(明治43年)に独立しました。
★1890年(明治23年)に本堂が再建されました。
★1995年(平成7年)に山門が修復されました。
★2011年(平成23年)に黄泉がえりの井戸が隣接する民有地(旧境内)から発見されました。
【慶俊:六道珍皇寺開山】
慶峻は河内国丹比郡(大阪府藤井寺市)の渡来系氏族・葛井氏(藤井氏)の一族に生れたと言われています。葛井氏は仏教とゆかりが深く、慶俊は出家後に奈良・大安寺に入り、入唐僧の道慈から三輪・法相・華厳などを学びました。華厳の講師などを歴任し、753年(天平勝宝5年)に法華寺の大鎮になり、756年(天平勝宝8年)に第45代・聖武天皇の崩御に際し、「聖代の鎮護に堪え、玄徒の領袖たり」と讃えられて律師に任じられました。764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱後に道鏡によって排斥されたが、道鏡没落後に律師に返り咲き、770年(宝亀元年)に少僧都になりました。781年(天応元年)に第49代・光仁天皇から山城(京都)の愛宕山を与えられ、修験道場を開きました。慶峻は751年(天平勝宝3年)に東大寺写経所目録の中で、慶俊所持の経典中で借りたい経典が記され、753年(天平勝宝5年)に大安寺仁王会の講師18人にも名前が記されています。なお慶峻は延暦年間(782年~806年)に亡くなりました。
【六道珍皇寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・六道珍皇寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ