大徳寺の歴史は宗峰妙超が甥の帰依を受け、大徳庵を建立したの起源
大徳寺の時代別年表と重要人物
大徳寺は1315年(正和4年)に大燈国師・宗峰妙超が甥・赤松円心の帰依を受け、小堂・大徳庵を建立したのが起源とも、贈られたのが起源とも言われています。花園上皇が宗峰妙超に帰依し、持明院統の祈願所にしました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【大徳寺が建立されている場所】
- 大徳寺が建立されている場所は平安時代に第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮・紫野院(しのいん)が営まれた場所とも言われています。その後紫野寺(しのでら)・慈雲院(うりんいん)などが建立されたとも言われています。
【大徳寺の起源・始まり】
- 大徳寺は鎌倉時代後期の1315年(正和4年)または1319年(元応元年)に大燈国師(だいとうこくし)・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が甥・赤松円心(あかまつえんしん)の帰依を受け、小堂・大徳庵を建立したの起源とも、小庵・大徳庵を贈られたのが起源とも言われています。大燈国師・宗峰妙超は赤松円心の帰依を受け、東山・雲居庵(うんきょあん)から紫野に移ったと言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 1323年(元亨3年)頃に宗峰妙超が花園上皇(第95代・花園天皇(はなぞのてんのう))に禅籍を講義し、1325年(正中2年)に花園上皇が宗峰妙超に帰依し、大徳寺が持明院統(じみょういんとう・北朝)の祈願所にしました。なお大覚寺統(だいかくじとう・南朝)の南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)も院宣を下したと言われています。
- 1324年(元亨4年・正中元年)に後醍醐天皇が大徳寺の境外塔頭(たっちゅう)・雲林院(うんりんいん)周辺の土地を寄進したとも言われています。
- 1329年(嘉暦4年)に大徳寺が鎌倉幕府の祈願所になったと言われています。
- 1333年(元弘3年)に隠岐(おき)から戻った後醍醐天皇から五山別格の宸翰(しんかん)を賜り、1334年(建武元年)に後醍醐天皇から大徳寺が京都五山の第1位である南禅寺(なんぜんじ)と同列の上刹(じょうせつ)に列せられました。後醍醐天皇は大徳寺を宗峰妙超の一流相承禅林にしました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 1335年(建武2年)に後醍醐天皇が大徳寺に行幸しました。
- 1341年(興国2年・暦応4年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の弟で、副将軍と称された足利直義(あしかがただよし)が大徳寺を京都五山から外しました。大徳寺は官刹(かんさつ)から離脱し、十刹の下の格外・林下(りんげ)になりました。
- 1358年(正平13年・延文3年)に北朝4代・後光厳天皇(ごこうげんてんのう)が荒廃していた大徳寺を再興しました。
- 1386年(元中3年・至徳3年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が五山制度を改定し、大徳寺は五山十刹の内、十刹の第9位に列せられました。大徳寺は南朝・後醍醐天皇との関係が深く、足利将軍家から軽んじられました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 永享年間(1429年~1441年)に大徳寺四派の真珠庵(しんじゅあん)が建立されました。
- 1431年(永享3年)に室町幕府に願い出て、大徳寺が再び官刹から外れました。
- 1453年(享徳2年)に火災によって大徳寺が全山焼失しました。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火により、大徳寺の伽藍の多くが焼失しました。
- 1474年(文明6年)に一休さん(一休宗純(いっきゅうそうじゅん))が第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の勅命によって大徳寺48代住持(住職)になり、堺の豪商・尾和宗臨(おわそうりん)らの協力によって再興しました。
- 明応年間(1492年~1501年)に大徳寺四派の龍泉庵(りょうせんあん)が建立されました。
- 室町時代以降に一休宗純などの名僧を輩出し、わび茶の祖・村田珠光(むらたじゅこう)が一休宗純に参禅し、その後武野紹鴎(たけのじょうおう)・千利休(せんのりきゅう)・小堀遠州(こぼりえんしゅう)などの茶人とゆかりを持ち、国宝に指定されている塔頭・龍光院(りょうこういん)密庵(みったん)などの文化財を有していることから「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」とともに「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と言われています。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】
- 永正年間(1504年~1521年)に大徳寺四派の龍源院(りょうげんいん)が建立されました。
- 1509年(永正6年)に大徳寺四派の大仙院(だいせんいん)が建立されました。
- 1565年(永禄8年)に宣教師であるルイス・フロイスが大徳寺を訪れました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 1582年(天正10年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が織田信長(おだのぶなが)の葬儀を7日間に渡って行い、織田信長を弔う為に大徳寺山内に塔頭(たちゅう)・総見院(そうけんいん)を建立しました。葬儀は「大徳寺の焼香争い」として知られています。また豊臣秀吉は寺領も寄進しました。
- 1589年(天正17年)に千利休(せんのりきゅう)が山門(金毛閣)に2階を増築し、雪駄(げた)を履いた利休の像を安置したことから豊臣秀吉の怒りを買って、自決の原因になったとも言われています。なお豊臣秀吉は大徳寺を破却しようとしたそうです。
- 1585年(天正13年)に豊臣秀吉が大徳寺で大茶湯を催したと言われています。
- 慶長年間(1596年~1615年)に豊臣家ゆかりの戦国武将が大徳寺山内に塔頭を建立し、「紫野に非ずんば仏法に非ず」と言われました。ちなみに塔頭・芳春院(ほうしゅんいん)は1608年(慶長13年)に前田利家(まえだとしいえ)の夫人・松子が子である前田利長(まえだとしなが)・前田利常(まえだとしつね)とともに大徳寺147世・玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)を開山として建立しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1608年(慶長13年)にたくあん漬け(沢庵漬け)を考案したとも言われる大徳寺154世・沢庵宗彭が住しました。ただ沢庵宗彭は住持を3日で辞したと言われています。
- 1615年(慶長20年)に江戸幕府が諸宗諸本山諸法度(大徳寺法度など)を制定しました。
- 1629年(寛永6年)に紫衣事件(しえじけん)が起こり、元大徳寺住持・沢庵宗彭(たくあんそうほう)が山形に流罪になりました。なお江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が沢庵宗彭に帰依し、1641年(寛永18年)に江戸幕府は大徳寺の紫衣を元に戻しました。
- 寛文年間(1661年~1673年)に七堂伽藍が整い、大徳寺が現在の姿になりました。1665年(寛文5年)に仏殿が建立されました。
- 江戸時代に大徳寺は「24塔頭、60寮舎・子庵」・「24塔頭・准塔頭59宇(65宇)」などと言われました。大徳寺は末寺が25ヶ国・280余寺、末寺の塔頭が130余院、朱印地が2,011石余を有していました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 明治維新後に神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や上知令により、大徳寺の塔頭が破却されたり、統廃合が行われたりしました。また寺領を失ったりしました。
【大徳寺の開山とされる宗峰妙超】
宗峰妙超は1282年(弘安5年)に播磨国守護・赤松氏の家臣・浦上氏の子として播磨国(兵庫)に生まれました。11歳の時に書写山圓教寺に入寺して天台宗を学びます。その後禅宗に目覚め、1303年(乾元2年)に鎌倉・万寿寺で夢窓疎石の師・高峰顕日のもとで出家し、その後宋(中国)から帰国した京都・韜光庵の南浦紹明に師事し、南浦紹明とともに鎌倉・建長寺に移り、1307年(徳治2年)に南浦紹明から印可を得ました。1309年(延慶2年)に東山の雲居庵で隠棲し、1315年(正和4年)に大徳寺を創建したと言われています。なお宗峰妙超は1337年(延元2年・建武4年)に亡くなりました。
【大徳寺 備考】
*参考・・・大徳寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ