妙心寺の歴史は花園上皇が花園御所を禅寺に改めたのが起源
妙心寺の時代別年表と重要人物
妙心寺は1335年(建武2年)に花園上皇が落飾して法皇になり、花園御所を禅寺に改めることを発願したのが起源です。その後禅の師・宗峰妙超が亡くなり、宗峰妙超の高弟・関山慧玄が美濃から京都に戻って開山になりました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【妙心寺が建立されている場所】
- 妙心寺が建立されている場所は鎌倉時代後期に花園上皇(第95代・花園天皇(はなぞのてんのう))の花園御所(離宮・萩原殿(はぎわらどの))があった場所です。かつてこの地には公卿(くぎょう)の邸があり、お花畑に四季折々に美しい花が咲き乱れていたことから「花園」と言われるようになりました。妙心寺の前身である花園御所の始まりです。
【妙心寺の起源・始まり】
- 妙心寺は1335年(建武2年)に花園上皇が落飾して法皇になり、花園御所と言われた離宮・萩原殿を禅寺に改めることを発願したのが起源です。ただ1337年(延元2年・建武4年)に花園法皇の禅の師で、大徳寺(だいとくじ)開山である大燈国師(だいとうこくし)・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が亡くなった為、1342年(興国3年・暦応5年)に大燈国師・宗峰妙超が推挙した高弟・関山慧玄(かんざんえげん)が美濃から京都に戻ってから開山になりました。正法山(しょうぼうざん)妙心寺の山号・寺号は宗峰妙超が仏教の開祖・釈尊(しゃくそん・お釈迦様)が弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に言った「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)涅槃妙心(ねはんみょうしん)」から名付けました。妙心寺は臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派大本山・大徳寺の末寺だったそうです。なお妙心寺では開山・関山慧玄、二祖・授翁宗弼(じゅおうそうひつ)、三祖・無因宗因(むいんそういん)、四祖・日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)、五祖・義天玄承(ぎてんげんしょう)、六祖・雪江宗深(せっこうそうしん)を尊崇しています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 1338年(延元3年・暦応元年)に花園法皇は玉鳳院(ぎょくほういん)を建立し、関山慧玄に参禅しました。玉鳳院開山堂は妙心寺発祥の地とされています。
- 1347年(正平2年・貞和3年)に花園法皇は妙心寺への熱い思いを「往年の宸翰(おうねんのしんかん)」に記しました。
- 1348年(正平3年・貞和4年)に妙心寺開基・花園法皇が崩御しました。
- 1360年(正平15年・延文5年)に妙心寺開山・関山慧玄が亡くなりました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 1398年(応永5年)に妙心寺が室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の祈願所(きがんじょ)になりました。なお足利義満に反旗を翻した守護大名・大内義弘(おおうちよしひろ)が応永の乱(大内義弘の乱)を起こすと大内義弘と師壇関係があった妙心寺6世住持・拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は足利義満の怒りを買って、青蓮院(しょうれんいん)に幽閉されました。妙心寺は没収されて中絶し、寺号を龍雲寺に改名させられました。
- 1432年(永享4年)に妙心寺が返還され、四祖・日峰宗舜がを中興しました。
- 文安年間(1444年~1449年)に室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が妙心寺に寺領を寄進しました。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失しました。妙心寺の境外塔頭(たちゅう)・龍安寺(りょうあんじ)も焼失しました。
- 1476年(文明8年)に会計簿(米銭納下帳・日単簿)が作成され、妙心寺の算盤面(そろばんづら)の起源になったとも言われています。
- 1477年(文明9年)に六祖・雪江宗深が第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の勅と室町幕府管領・細川勝元(ほそかわかつもと)親子らの援助により、妙心寺を再興しました。
- 1481年(文明13年)に妙心寺四派の龍泉庵(りゅうせんあん)が建立されました。
- 1484年(文明16年)に妙心寺四派の東海庵(とうかいあん)が建立されました。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】
- 永正年間(1504年~1521年)に妙心寺が大徳寺から独立しました。1509年(永正6年)に第104代・後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)の綸旨により、大徳寺と同格の寺になったと言われています。なお妙心寺と大徳寺は絶交になったとも言われています。
- 1509年(永正6年)に関白・一条兼良(いちじょうかねよし)の女・利貞尼(りていに)が仁和寺(にんなじ)の土地を買い求めて妙心寺に寄進し、境内が現在のように広くなりました。その後七堂伽藍(しちどうがらん)が建立され、塔頭も建立されました。
- 1523年(大永3年)に妙心寺四派の聖澤院(しょうたくいん)が建立されました。
- 1526年(大永6年)に妙心寺四派の霊雲院(れいうんいん)が建立されました。なお妙心寺は龍泉庵・東海庵・聖澤院・霊雲院による「四派四本庵(しはしほんあん)」によって運営されます。
- 1578年(天正6年)に南化玄興(なんかげんこう)・快川紹喜・虎哉宗乙ら三十六師連名で妙心寺壁書(規則)が定められました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 1582年(天正10年)に本能寺の変(ほんのうじのへん)が起こり、織田信長(おだのぶなが)の妹・お市の方が妙心寺で織田信長の百箇日法要を行いました。
- 1591年(天正19年)に妙心寺51世・直指宗諤(じきしそうがく)が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・棄て丸(すてまる・鶴松(つるまつ))の葬儀を行いました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、石田三成(いしだみつなり)の嫡男・石田重家(いしだしげいえ)が妙心寺で出家して命を助けられました。
- 1614年(慶長19年)に方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)が起こり、祥雲寺(しょううんじ)住持・海山元珠(がいざんげんしゅ)が豊臣家を弁護した為、1615年(元和元年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の怒りを買って、妙心寺は江戸幕府から厳しく統制され、「妙心寺法度(はっと)」を押し付けられ、統制は1632年(元和9年)まで続いたそうです。
- 1629年(寛永6年)に紫衣事件(しえじけん)により、妙心寺・大徳寺の僧侶が江戸幕府に抗議したが、単伝士印(たんでんしいん)・沢庵宗彭(たくあんそうほう)などが処罰されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって影響を受けます。幕末に100余りあった妙心寺の塔頭が半減しました。
- 1871年(明治4年)に管長職が設けられました。
- 1876年(明治9年)に臨済宗妙心寺派として独立しました。
【妙心寺の開基とされる第95代・花園天皇】
花園天皇は1297年(永仁5年)に第92代・伏見天皇と母・洞院実雄の女・洞院季子(顕親門院)の第4皇子として生まれました。兄の第93代・後伏見天皇の猶子になり、1301年(正安3年)に皇太子になり、1308年(延慶元年)に大覚寺統の第94代・二条天皇が急死すると12歳で即位しました。ただ在位中の前半は父・伏見上皇、後半は兄の後伏見上皇(第93代・後伏見天皇)が院政を行いました。1318年(文保2年)に大覚寺統の尊治親王(南朝初代で、第96代・後醍醐天皇)に譲位しました。花園天皇は持明院統に属したが、持明院統と大覚寺統による皇位争いには公正な態度を取りました。花園天皇は幼少から学問を好み、歌道・学問・書道に優れ、和歌では「風雅和歌集」を監修しました。また花園天皇は禅宗に傾倒し、1335年(建武2年)に円観のもとで出家して法名・遍行と称し、宗峰妙超・関山慧玄を師として禅宗を学び、妙心寺を創建しました。第95代・花園天皇は1348年(正平3年・貞和4年)に崩御しました。
【妙心寺 備考】
*参考・・・妙心寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ