妙心寺(花園法皇)歴史簡単まとめ

妙心寺見どころ

妙心寺歴史

妙心寺歴史を簡単にまとめて紹介しています。妙心寺は鎌倉時代に花園上皇(第95代・花園天皇)の花園御所(離宮・萩原殿)があった場所でした。妙心寺は1335年(建武2年)に花園上皇が落飾して花園法皇になり、花園御所を禅寺に改めることを発願したのが起源です。

【妙心寺歴史以外の情報】
妙心寺見どころ

★妙心寺歴史年表
【前史 妙心寺】
●妙心寺が建立されている場所は鎌倉時代後期に花園上皇(第95代・花園天皇(はなぞのてんのう))の花園御所(離宮・萩原殿(はぎわらどの))があった場所です。なおかつてこの地には公卿(くぎょう)の邸があり、お花畑に四季折々に美しい花が咲き乱れていたことから「花園」と言われるようになりました。

【創建(起源・由来)の歴史 妙心寺】
●1335年(建武2年)に花園上皇が落飾して法皇になり、花園御所を禅寺に改めることを発願したのが妙心寺の起源です。ただ1337年(延元2年・建武4年)に花園法皇の禅の師である大燈国師(だいとうこくし)・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が亡くなった為、1342年(興国3年・暦応5年)に大燈国師・宗峰妙超が推挙した高弟・関山慧玄(かんざんえげん)が美濃から京都に戻ってから開山になりました。なお正法山(しょうぼうざん)妙心寺の名称は宗峰妙超が仏教の開祖・釈尊(しゃくそん・お釈迦様)が弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に言った「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)涅槃妙心(ねはんみょうしん)」から名付けました。妙心寺は当初、臨済宗(りんざいしゅう)大徳寺派大本山・大徳寺(だいとくじ)の末寺だったそうです。

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【南北朝時代の歴史 妙心寺】
●1338年(延元3年・暦応元年)に花園法皇は玉鳳院(ぎょくほういん)を建立し、関山慧玄に参禅しました。
●1348年(正平3年・貞和4年)に花園法皇が崩御し、1360年(正平15年・延文5年)に関山慧玄が亡くなりました。

【室町時代の歴史 妙心寺】
●1398年(応永5年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の祈願所(きがんじょ)になりました。なお足利義満に反旗を翻した守護大名・大内義弘(おおうちよしひろ)が応永の乱(大内義弘の乱)を起こすと大内義弘と師壇関係があった妙心寺6世住持・拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は足利義満の怒りを買って、青蓮院(しょうれんいん)に幽閉され、妙心寺の寺領は没収されました。
●1432年(永享4年)に寺領が妙心寺に返還され、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)が妙心寺を中興しました。
●文安年間(1444年~1449年)に室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が寺領を寄進しました。
●室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失しました。境外塔頭(たちゅう)・龍安寺(りょうあんじ)も焼失しました。
●1476年(文明8年)に会計簿(米銭納下帳・日単簿)が作成され、妙心寺の算盤面(そろばんづら)の起源になったとも言われています。
●1477年(文明9年)に妙心寺の六祖・雪江宗深(せっこうそうしん)が第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の勅と室町幕府管領・細川勝元(ほそかわかつもと)親子らの援助によって再興しました。
●1481年(文明13年)に四派の龍泉庵(りゅうせんあん)が建立されました。
●1484年(文明16年)に四派の東海庵(とうかいあん)が建立されました。

【戦国時代(室町時代後期)の歴史 妙心寺】
●永正年間(1504年~1521年)に大徳寺から独立しました。1509年(永正6年)に第104代・後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)の綸旨により、大徳寺と同格の寺になったと言われています。なお妙心寺と大徳寺は絶交になったとも言われています。
●1509年(永正6年)に関白・一条兼良(いちじょうかねよし)の女・利貞尼(りていに)が仁和寺(にんなじ)の土地を買い求めて妙心寺に寄進し、境内が現在のように広くなりました。その後七堂伽藍(しちどうがらん)が建立され、塔頭も建立されました。
●1523年(大永3年)に四派の聖澤院(しょうたくいん)が建立されました。
●1526年(大永6年)に四派の霊雲院(れいうんいん)が建立されました。なお妙心寺は龍泉庵・東海庵・聖澤院・霊雲院による「四派四本庵(しはしほんあん)」によって運営されます。

【安土桃山時代の歴史 妙心寺】
●1591年(天正19年)に妙心寺51世・直指宗諤(じきしそうがく)が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・棄て丸(すてまる・鶴松(つるまつ))の葬儀を行いました。

【江戸時代の歴史 妙心寺】
●1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、石田三成(いしだみつなり)の嫡男・石田重家(いしだしげいえ)が妙心寺で出家して命を助けられました。
●1614年(慶長19年)に方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)が起こり、祥雲寺(しょううんじ)住持・海山元珠(がいざんげんしゅ)が豊臣家を弁護した為、1615年(元和元年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の怒りを買って、妙心寺は江戸幕府から厳しく統制され、「妙心寺法度(はっと)」を押し付けられ、統制は1632年(元和9年)まで続いたそうです。
●1629年(寛永6年)に紫衣事件(しえじけん)により、妙心寺・大徳寺の僧侶が江戸幕府に抗議したが、単伝士印(たんでんしいん)・沢庵宗彭(たくあんそうほう)などが処罰されました。

【明治時代以降の歴史 妙心寺】
●明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって影響を受けます。幕末に100余りあった塔頭が半減しました。
●1871年(明治4年)に管長職が設けられました。

★妙心寺歴史上人物
【第95代・花園天皇 妙心寺開基】
第95代・花園天皇は妙心寺の歴史上、開基です。花園天皇は1297年(永仁5年)に第92代・伏見天皇と母・洞院実雄の女・洞院季子(顕親門院)の第4皇子として生まれました。兄の第93代・後伏見天皇の猶子になり、1301年(正安3年)に皇太子になり、1308年(延慶元年)に大覚寺統の第94代・二条天皇が急死すると12歳で即位しました。ただ在位中の前半は父・伏見上皇、後半は兄の後伏見上皇(第93代・後伏見天皇)が院政を行いました。1318年(文保2年)に大覚寺統の尊治親王(南朝初代で、第96代・後醍醐天皇)に譲位しました。花園天皇は持明院統に属したが、持明院統と大覚寺統による皇位争いには公正な態度を取りました。花園天皇は幼少から学問を好み、歌道・学問・書道に優れ、和歌では「風雅和歌集」を監修しました。また花園天皇は禅宗に傾倒し、1335年(建武2年)に円観のもとで出家して法名・遍行と称し、宗峰妙超・関山慧玄を師として禅宗を学び、妙心寺を創建しました。第95代・花園天皇は1348年(正平3年・貞和4年)に崩御しました。

【文化財・見どころ 妙心寺】
●梵鐘(国宝)は698年(文武天皇2年)に鋳造されました。梵鐘は紀年銘文のある梵鐘として、日本最古と言われています。
●法堂(重要文化財)は1656年(明暦2年)に建立されました。なお法堂は重要文化財です。
●仏殿(重要文化財)は1827年(文政10年)に再建されました。
●大方丈(重要文化財)は1654年(承応3年)に建立されました。
●小方丈(重要文化財)は1603年(年慶長8年)に建立された塔頭・玉鳳院の御殿として建立され、1656年(明暦2年)に移されました。
●庭園(国の名勝・史跡)は前庭・大方丈庭園・小方丈庭園に分かれています。前庭は放生池を中心とした庭園です。大方丈庭園は白砂のみで構成された庭園です。小方丈庭園は枯山水式庭園です。
●寝堂(重要文化財)は1656年(明暦2年)に建立されたと言われています。
●経蔵(重要文化財)は1673年(寛文13年)または1674年(延宝2年)にに大坂・淀屋辰五郎の寄進によって建立されました。
●庫裏(重要文化財)は1653年(承応2年)に建立されたとも言われています。
●玄関(重要文化財)は1654年(承応3年)に建立されました。
●浴室(重要文化財)は1656年(明暦2年)に再建されました。
●三門(重要文化財)は1599年(慶長4年)に建立されました。
●勅使門(重要文化財)は1610年(慶長15年)に建立されました。
●北門(重要文化財)は1610年(慶長15年)に建立されました。
●南門(重要文化財)は1610年(慶長15年)に建立されました。
●開山堂は1537年(天文6年)に東福寺(とうふくじ)から移されたと言われています。

【塔頭 妙心寺】
●龍安寺は妙心寺の境外塔頭です。龍安寺は1450年(宝徳2年)に室町幕府管領・細川勝元が山荘を譲り受けて創建しました。
●玉鳳院は妙心寺の塔頭です。玉鳳院は花園上皇の花園御所(離宮・萩原殿)があった場所です。その後1342年(興国3年)に花園法皇の起居する禅宮御殿として建てられ、法皇の没後は塔所になりました。
●東林院は妙心寺の塔頭です。東林院は1531年(享禄4年)に室町幕府管領・細川氏綱が養父・細川高国の菩提を弔う為、清蔵口の細川家邸宅内に建立した三友院が起源です。

【妙心寺歴史 備考】
*参考・・・京都・妙心寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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