建仁寺(栄西禅師)歴史簡単まとめ

建仁寺見どころ

建仁寺歴史

建仁寺歴史を簡単にまとめて紹介しています。建仁寺は1202年(建仁2年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家が寺域を寄進し、臨済宗の宗祖・栄西禅師が宋(中国)・百丈山を模して創建しました。寺号は第83代・土御門天皇の勅許により、禅寺初の年号寺院・建仁寺になりました。

【建仁寺歴史以外の情報】
建仁寺見どころ

★建仁寺歴史年表
【前史 建仁寺】
●建仁寺が建立されている場所は鎌倉幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)に近接する幕府直轄領でした。

【創建(起源・由来)の歴史 建仁寺】
●鎌倉時代前期の1202年(建仁2年)に鎌倉幕府2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)が寺域を寄進し、臨済宗(りんざいしゅう)の宗祖・栄西禅師(えいさいぜんじ・ようさいぜんじ)が宋(中国)・百丈山(ひゃくじょうざん)を模して建仁寺を創建しました。建仁寺の寺号は第83代・土御門天皇(つちみかどてんのう)の勅許により、禅寺初の年号寺・建仁寺になりました。なお建仁寺は当初、天台(てんだい)・密教(みっきょう)・禅(ぜん)の三宗兼学で、真言(しんごん)・止観(しかん)の二院も構えていました。

【鎌倉時代の歴史 建仁寺】
●1205年(元久2年)に官寺になりました。
●1246年(寛元4年)・1247年(寛元5年)・1256年(建長8年)に火災で焼失して荒廃したと言われています。
●1258年(正嘉元年)に東福寺(とうふくじ)開山である聖一国師(しょういちこくし)・円爾(えんに)が建仁寺10世になり、諸堂を修復して再興しました。
●1259年(正元元年)に宋(中国)からの渡来禅僧で、鎌倉・建長寺(けんちょうじ)開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺して建仁寺11世になり、三宗兼学から禅の道場に改めたと言われています。建仁寺では禅の作法・規矩(禅院の規則)が厳格に行われ、「建仁寺の学問面」の起源になったとも言われています。
●1265年(文永2年)に蘭渓道隆が寺号を建仁寺から建寧寺に改めました。
●1305年(嘉元3年)に方丈が再建されました。

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【南北朝時代の歴史 建仁寺】
●1334年(建武元年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)から京都五山の第二位に列せられました。
●1340年(延元5年・暦応3年)に佐々木道誉(ささきどうよ)による妙法院(みょうほういん)焼き討ちの際に開山堂・輪蔵や塔頭・瑞法庵(ずいほうあん)などが類焼しました。
●1341年(興国2年・暦応4年)に室町幕府によって京都五山の第四位に列せられました。
●1342年(興国3年・康永元年)に寺名を建仁寺に戻しました。
●1363年(正平18年・貞治2年)に青山慈永(せいざんじえい)が建仁寺に住し、法堂を創建しました。
●1386年(元中3年・至徳3年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)により、京都五山(天龍寺(てんりゅうじ)・相国寺(しょうこくじ)・建仁寺・東福寺・万寿寺(まんじゅじ))の第三位に列せられました。

【室町時代の歴史 建仁寺】
●1397年(応永4年)に火災で焼失しました。
●1419年(応永26年)に「建仁寺式法」・「山門条々規式」が制定されました。
●室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失しました。1481年(文明13年)にも火災で焼失しました。

【戦国時代(室町時代後期)の歴史 建仁寺】
●1552年(天文21年)に三好長慶(みよしながよし)・細川晴元(ほそかわはるもと)の兵火により、仏殿・方丈・法堂などの伽藍や塔頭(たちゅう)が焼失したとも言われています。。

【安土桃山時代の歴史 建仁寺】
●1586年(天正14年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が寺領820石を寄進したとも言われています。
●1599年(慶長4年)に東福寺(とうふくじ)224世住持・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が広島・安国寺(あんこくじ)の方丈を移して方丈を再建しました。

【江戸時代の歴史 建仁寺】
●1614年(慶長19年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえみつ)から寺領820石を安堵されました。
●1628年(寛永5年)に三江紹益(さんこうじょうえき)が浴室を再建しました。
●1664年(寛文4年)に新彫された栄西禅師像の開眼法要が行われました。ちなみに前年から開山栄西禅師四百五十年遠諱の為に開山塔も修理されました。
●1669年(寛文9年)に仏殿東北に鐘楼が創建されました。

【明治時代以降の歴史 建仁寺】
●明治維新後に臨済宗建仁寺派として分派独立し、大本山になりました。神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃ)によって塔頭(たちゅう)が統廃合され、余った土地が政府に上納され、境内が半分近くに縮小しました。

★建仁寺歴史上人物
【栄西禅師(明菴栄西) 建仁寺開山】
●栄西禅師(明菴栄西)は建仁寺の歴史上、開山です。明菴栄西は1141年(永治元年)に岡山・吉備津神社の賀陽貞遠の子として生まれました。1151年(仁平元年)に備中・安養寺の静心に師事し、1154年(久寿元年)に延暦寺で出家しました。天台宗の教学・密教を学び、その後自分の坊号を冠した葉上流を興しました。1168年(仁安3年)に堕落した天台宗を立て直すべく、南宋(中国)に留学し、天台山万年寺を訪れ、同年9月に「天台章疎」60巻を持って帰国しました。1187年(文治3年)に再び南宋に渡り、仏法辿流の為にインド渡航を願い出るが、許可されませんでした。その後天台山万年寺の虚庵懐敞に師事し、1189年(文治5年)に虚庵懐敞にともに天童山景徳寺に移り、1191年(建久2年)に虚庵懐敞から臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、号・明菴を授かりました。1195年(建久6年)に博多・聖福寺を創建して日本最初の禅道場にしました。1198年(建久9年)に京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、1200年(正治2年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝一周忌の導師を務め、北条政子創建の寿福寺の住職に招聘されました。1202年(建仁2年)に鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の外護によって建仁寺を創建し、1204年(元久元年)に奈良・東大寺勧進職に就任しました。なお明菴栄西は1215年(建保3年)に亡くなりました。

【鎌倉幕府第2代将軍・源頼家 建仁寺開基】
●鎌倉幕府第2代将軍・源頼家は建仁寺の歴史上、開基です。源頼家は1182年(寿永元年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)と北条政子(ほうじょうまさこ)の嫡男として生まれました。1197年(建久8年)に16歳で従五位上・右近衛権少将に叙任されました。1199年(建久10年)に父・源頼朝が急死すると18歳で家督を相続し、その後北条氏ら有力御家人による十三人の合議制が敷かれました。1202年(建仁2年)に従二位に叙され、征夷大将軍になりました。その後源頼家の後ろ盾であった比企氏と弟・源実朝を担ぐ北条氏が対立するようになり、比企氏は北条氏による攻撃によって滅亡し、源頼家は将軍職を剥奪されて伊豆国修禅寺に幽閉され、1204年(元久元年)に満21歳で暗殺されました。北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになりました。

【文化財・見どころ 建仁寺】
●風神雷神図(国宝)は打它公軌が妙光寺再興を記念し、絵師・俵屋宗達に製作を依頼し、1639年(寛永16年)頃に妙光寺に奉納されたが、その後建仁寺に寄贈されました。
●方丈(重要文化財)は1487年(長享元年)に広島・安国寺の方丈として建立され、1599年(慶長4年)に安国寺恵瓊が移しました。その後1934年(昭和9年)に室戸台風で倒壊し、1940年(昭和15年)に再建されました。
●勅使門(重要文化財)は鎌倉時代後期(1275年~1332年)に建てられました。
●法堂は1765年(明和2年)に建立されました。
●三門は江戸時代末期に静岡・安寧寺に建立され、1923年(大正12年)に移されました。
●大雄苑は1940年(昭和15年)に作庭されました。
●○△ロ乃庭は2006年(平成18年)に作庭されました。
●茶室・東陽坊は1587年(天正15年)に関白・豊臣秀吉が北野大茶会を行った際に紙屋川
の土手に建てられた副席で、1921年(大正10年)に移されました。
●本坊は1814年(文化11年)に建立されました。
●開山堂は明治時代中期に再建されたとも言われています。
●浴室は1628年(寛永5年)に三江紹益が建立し、2002年(平成14年)に法堂の東から現在の場所に移されました。
●梵鐘は鎌倉時代に鋳造されたと言われています。
●楽神廟(京都府指定文化財)は江戸時代前期に造営されたと言われています。
●供養塔は大名で、茶人である織田有楽斎が兄・織田信長追善の為に建てたと言われています。

【塔頭 建仁寺】
●六道珍皇寺は起源が明確ではありません。六道珍皇寺は真言宗の開祖である弘法大師・空海の師・慶俊が創建したとも言われています。
●両足院は明庵栄西の法脈を受け継ぐ龍山徳見禅師が開山し、知足院と号したのが起源です。

【建仁寺歴史 備考】
*参考・・・京都・建仁寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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