赤山禅院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

赤山禅院の歴史を時代別年表にまとめ

赤山禅院の歴史は888年(仁和4年)に安慧が慈覚大師・円仁の遺命により、陰陽道の祖神である赤山大明神を勧請したのが起源と言われています。慈覚大師・円仁は赤山禅院を創建することを誓ったが、叶わずに亡くなりました。(時代別年表・重要人物下記参照)

【比叡山延暦寺】

★比叡山延暦寺は奈良時代末期の788年(延暦7年)に伝教大師・最澄が自ら刻んだ薬師如来(やくしにょらい・薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい))を本尊とする草庵・一乗止観院(いちじょうしかんいん)を結んだのが起源と言われています。その後791年(延暦10年)に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)の御願寺(ごがんじ)になり、806年(延暦25年)に勅許によって天台宗(てんだいしゅう)が公認されました。なお赤山禅院は比叡山延暦寺の塔頭(たっちゅう)です。
★赤山禅院が建立されている場所には大納言・南淵年名(みなふちのとしな)の小野山荘があったとも言われています。

【赤山禅院の起源・始まり】

★赤山禅院は平安時代前期の888年(仁和4年)に第4世天台座主・安慧(あんね)が864年(貞観6年)に亡くなった第3世天台座主の慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)の遺命により、陰陽道(おんみょうどう)の祖神(おやがみ)である赤山大明神(泰山府君(たいざんふくん))を勧請したのが起源と言われています。慈覚大師・円仁は838年(承和5年)に遣唐使船で唐(中国)に渡り、その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院を創建することを誓ったが、叶わずに亡くなり、安慧が遺命を引き継いだと言われています。また慈覚大師・円仁は登州(山東省)で滞在した赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したとも言われています。ちなみに泰山府君(赤山大明神)は中国五岳(五名山)の中で、筆頭とされる東岳(とうがく)・泰山(たいざん)の神です。慈覚大師・円仁が日本に戻る際に何度も遭難しそうになったが、泰山府君(赤山大明神)が船の舳に赤い衣を着て、白羽の矢を負った姿で現れて守護したと言われています。なお安慧は868年(貞観10年)に亡くなっており、888年(仁和4年)に赤山禅院を創建したという縁起に疑問があるとも言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★平安時代前期に赤山禅院が平安京・御所の表鬼門(東北)に位置したことから皇城の表鬼門の鎮守とされました。拝殿の屋根には邪気を払う力があるとされる鬼門除けの猿(申)が置かれています。
★平安時代前期に第56代・清和天皇(せいわてんのう)が社殿を建立し、神階・正四位を授けたとも言われています。
★平安時代前期に延暦寺の相應和尚が千日回峰行(せんにちかいほうぎょ)を創始したと言われています。千日回峰行は7年間に渡って行われます。1~3年目は1年に100日、4・5年目は1年に200日、比叡山内約30キロを巡拝します。5年目の700日を満行すると無動寺明王堂で堂入りし、断食・断水・断眠・断臥の四無行を9日間(丸7日半)に渡って行い、不動真言を10万回唱えます。堂入りが満行すると生身の不動明王(ふどうみょうおう)とも言われる阿闍梨(あじゃり)になります。6年目は1年に100日、比叡山内と赤山禅院約60キロを巡拝します。比叡山から雲母坂を下って、赤山禅院で赤山大明神に花を供し、比叡山に戻ります。1日約60キロを巡拝するのに14~15時間を要し、「赤山苦行」と言われています。7年目の前半100日は京都大回り約84キロ、後半の100日は比叡山内約30キロを巡拝します。京都大回りでは比叡山から赤山禅院、更に京都市内を巡礼します。なお千日回峰行で歩くのは975日で、残りの25日は「一生をかけて修行しなさい」という意味だそうだ。
★924年(延長2年)に新羅神社(新羅明神社)が創建されたとも言われています。
★平安時代中期に延暦寺では円仁派と円珍派(智証大師(ちしょうだいし)・円珍(えんちん))に分かれ、激しく対立するようになり、赤山禅院も争いに見舞われたと言われています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★1217年(建保5年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))の病気平癒を祈願した際、泰山府君祭で平癒したと言われ、赤山権現祭が官祭になったとも言われています。
★1261年(文応2年)に赤山権現祭が官祭になったとも言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★室町時代に京都で七福神信仰が始まり、都七福神は最古の七福神とされています。都七福神では赤山禅院(福禄寿神)・恵美須神社(ゑびす神)・妙円寺(大黒天)・東寺(毘沙門天)・六波羅蜜寺(弁財天)・行願寺(寿老神)・萬福寺(布袋尊)を巡り、七難即滅・七福即生を祈願します。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★江戸時代前期に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)に行幸された際、社殿が修築され、勅額「赤山大明神」を賜りました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★明治維新後の神仏分離令に関わらず、神仏習合の形を残しています。ただ廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で荒廃したと言われています。寺号が赤山明神から赤山禅院に改められました。
★1911年(明治44年)に拝殿が再建されました。屋根の上に鬼門除けの猿が置かれています。猿はかつて夜な夜な抜け出して悪さをしたことから抜け出さないように金網の中に入れられています。
★1911年(明治44年)に地蔵堂(本地堂)が再建されました。地蔵堂は赤山大明神の本地仏である地蔵菩薩(じぞうぼさつ)を安置しています。
★明治時代に雲母坂にあった雲母寺(うんもじ)の本堂と本尊・不動明王が移築され、雲母不動堂が建立されました。雲母寺は平安時代前期に天台宗の相応が雲母坂の登り口・音羽谷に創建したとも言われています。

【赤山禅院の開山とされる安慧】

安慧は794年(延暦13年)に河内国(大阪)大県郡に大狛氏の一族として生まれました。幼少の頃に下野国(栃木)・大慈寺(小野寺)の広智に師事して出家し、その後13歳で比叡山に登り、最澄・円仁に顕教・密教を学びました。遮那業学生として得度し、12年間の篭山修行を行ないました。844年(承和11年)に出羽国(山形)の講師に任じられ、848年(承和13年)に延暦寺定心院十禅師に任じられ、内供奉十禅師を経て、864年(貞観6年)に第4世天台座主になりました。安慧は「顕法華義抄」・「即身成仏義」などを記しました。なお安慧は868年(貞観10年)に亡くなりました。

【赤山禅院 備考】
*参考・・・赤山禅院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)

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