三千院の歴史は伝教大師・最澄が東塔南谷に一宇を構えたのが起源
三千院の時代別年表と重要人物
三千院の歴史は788年(延暦7年)に伝教大師・最澄が延暦寺を創建した際、比叡山東塔南谷の山梨の大木の下に一宇を構え、円融房と称したのが起源です。1118年(元永元年)に最雲法親王が入寺し、宮門跡になりました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【比叡山】
★比叡山(ひえいざん)は古代から地主神・大山咋神(おおやまくいのかみ)が鎮座する神山として崇められていました。その後比叡山では藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が父・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の為に宝殿を建立して修行したとも、天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)の父・三津首百枝(みつのおびとももえ)が草庵を結び、男児誕生を祈願したとも言われています。
【三千院の起源・始まり】
★奈良時代後期の788年(延暦7年)に伝教大師・最澄が自ら刻んだ薬師如来(やくしにょらい・薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい))を本尊とする延暦寺(えんりゃくじ)の前身である草庵・一乗止観院(いちじょうしかんいん)を比叡山に結びました。三千院は伝教大師・最澄が延暦寺を創建した際、比叡山東塔南谷(とうとうみなみだに)の山梨の大木の下に一宇を構え、円融房(えんにゅうぼう)と称したのが起源と言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
★平安時代前期に第3代天台座主(てんだいざす)である慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)が三千院を引き継ぎました。慈覚大師・円仁は808年(大同3年)に唐(中国)から帰国した伝教大師・最澄に師事し、伝教大師・最澄最期の14年間に仕え、854年(斉衡元年)に第3代天台座主に就きました。
★860年(貞観2年)に慈覚大師・円仁の弟子・承雲(じょううん))が伽藍を建立し、伝教大師・最澄自刻の薬師如来像を安置し、円融院(えんゆういん)と称しました。また承雲は比叡山山麓の東坂本(大津市坂本)梶井里(かじいのさと)に円融院の里坊(さとぼう)も設けました。
★1086年(応徳3年)に本拠を東坂本梶井里に移し、円徳院と称しました。
★1118年(元永元年)に第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう)の皇子・最雲法親王(さいうんほっしんのう)が入寺し、皇子・皇族が住持を勤める宮門跡(みやもんぜき)になりました。最雲法親王は1130年(大治5年)に梶井門跡(三千院)14世になりました。なお三千院は地名の梶井と密教の修法・加持に用いる井戸(加持井)があったことから梶井宮と称するようになりました。
★1156年(保元元年)に最雲法親王が天台座主に任命されました。また同年に比叡山西麓の大原に梶井門跡(三千院)の政所(まんどころ)が置かれました。政所は来迎院(らいごういん)・勝林院(しょうりんいん)など大原寺(だいげんじ)と言われた寺院を管理しました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
★1232年(貞永元年)に東坂本梶井里の梶井門跡(三千院)が火災に見舞われ、京都市内に移転しました。その後も洛中や東山などを転々としました。東坂本梶井里から東山小坂・西の京・東山白川・東山三条高畠・東山中山・東山岡崎に移ったとも言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
★1331年(元弘元年・元徳3年)に洛北船岡山(ふなおかやま)東麓に移りました。この地には第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の離宮・雲林院(うんりんいん)があったと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、梶井門跡(三千院)が焼失し、大原の政所を本坊としました。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の出来事】
★1571年(元亀2年)に織田信長(おだのぶなが)が浅井(あざい)氏・朝倉(あさくら)氏と通じた延暦寺を焼き討ちした際、門跡が大原に移ったとも言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
★1698年(元禄11年)に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が門跡・慈胤法親王(じいんほっしんのう)に京都御所近くの御車道広小路に寺地を与え、本坊(三千院)が大原から移転しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
★明治維新後に門跡・昌仁法親王が還俗して梨本宮家を起こし、本坊(三千院)内の仏像・仏具が大原の政所に送られました。
★1871年(明治4年)に大原の政所が本坊になり、寺号を三千院に改称しました。三千院の名称は持仏堂に掲げられていた第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)宸筆の勅額に由来しています。
【三千院の開山とされる伝教大師・最澄】
伝教大師・最澄は767年(神護景雲元年)に近江国(滋賀県大津市)の豪族・三津首百枝の長男として生まれました。778年(宝亀9年)に近江国分寺で出家して行表の弟子になり、780年(宝亀11年)に得度しました。785年(延暦4年)に奈良・東大寺で具足戒を受け、788年(延暦7年)に比叡山に草庵を結びました。797年(延暦16年)に第50代・桓武天皇の内供奉十禅師になり、802年(延暦21年)に入唐求法の還学生に選ばれ、804年(延暦23年)に空海らとともに入唐し、中国・天台山で道邃・行満らに師事し、円・密・禅・戒の諸教を受け、805年(延暦24年)に帰国し、密教を伝える為に高雄山寺(神護寺)に灌頂壇を設け、806年(大同元年)に天台宗の開創が許されました。819年(弘仁10年)に比叡山に大乗戒壇建立を奏上したが、南都六宗の反対で許されず、822年(弘仁13年)に亡くなりました。死後7日目に大乗戒壇建立の勅許が下り、866年(貞観8年)に第56代・清和天皇から諡号・伝教大師が贈られました。
【三千院 備考】
*参考・・・三千院(歴史・見どころ・・・)ホームページ