法界寺の歴史は日野資業が薬師堂を建立したのが起源
法界寺の時代別年表と重要人物
法界寺は1051年(永承6年)に日野資業が薬師如来像を造仏し、薬師堂を建立したのが起源です。薬師如来像の胎内には日野家に代々伝わる天台宗の宗祖である伝教大師・最澄自作の三寸の薬師如来像を納めたと言われています。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【法界寺が建立されている場所】
- 法界寺が建立されている場所は藤原房前(ふじわらのふささき)を家祖とする藤原北家(ふじわらほっけ)の一流である日野氏の所領でした。日野家初代・藤原真夏は「ここは仏法有縁の地である」とのお告げを老翁から受けたとも言われています。その後日野家7代目・日野資業(ひのすけなり・藤原資業(ふじわらのすけなり)が別荘を営みました。なお法界寺は日野薬師とも言われています。
【法界寺の起源・始まり】
- 法界寺は平安時代後期の1051年(永承6年)に文章博士(もんじょうはかせ)だったが、出家した日野資業(藤原資業)が薬師如来(やくしにょらい)像を造仏し、安置する薬師堂を建立したのが起源です。法界寺は日野家の氏寺になり、薬師如来像の胎内には日野資業から4代前の家祖・藤原家宗(ふじわらのいえむね)から日野家に代々伝わる天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)自作の三寸の薬師如来像を納めたとも言われています。なお薬師如来像(重要文化財)は平安時代後期作と言われ、京の七薬師に数えられ、祈願すると女性の乳の出がよくなる言われ、乳薬師とも言われています。薬師如来像は安産・授乳・子授などのご利益があり、女性に信仰されました。
- 法界寺は平安時代前期の822年(弘仁13年)に藤原家宗が伝教大師・最澄自作の薬師如来像を本尊、伝教大師・最澄を開山として一族の氏寺として創建したとも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 1081年(承暦5年)頃に日野実綱が娘(藤原宗忠の母)の菩提(ぼだい)の為に観音堂を建立し、如意輪観音(にょいりんかんのん)像を安置したと言われています。
- 1084年(永保4年)頃に五大堂が建立されたと言われています。
- 1119年(元永2年)に観音堂が焼失したとも言われています。
- 1173年(承安3年)に浄土真宗(じょうどしんしゅう)の宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)が法界寺で生まれたと言われたと言われています。親鸞聖人の父は日野氏の一族である皇太后宮大進(たいごうぐうしょく)・日野有範(ひのありのり)です。
- 平安時代後期に阿弥陀信仰(あみだしんこう)が高まり、末法思想(まっぽうしそう)が広がり、阿弥陀堂が建立されたと言われています。当時の日記などによると5体の丈六の阿弥陀如来像が安置され、周囲には天人の壁画(重文)が描かれ、極楽浄土の世界を表していました。なお平安時代後期には法界寺に幾つかの堂塔が建立されていたが、現存するのは阿弥陀堂だけです。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 1221年(承久3年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))が鎌倉幕府2代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)を追討する承久の乱(じょうきゅうのらん)が起こり、阿弥陀堂が焼失し、阿弥陀堂は嘉禄年間(1225年~1226年)~嘉禎年間(1235年~1237年)に再建されたと言われています。
- 1301年(正安3年)に薬師堂・五大堂・観音堂などが焼失したとも言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 1425年(応永32年)に薬師如来像が七仏薬師に数えられ、勅使が派遣されたとも言われています。
- 1456年(康正2年)に現在の薬師堂が奈良斑鳩(いかるが)・伝燈寺(でんとうじ)の本堂として建立され、明治時代に法界寺に移築されました。伝燈寺は奈良・龍田神社(たつたじんじゃ)の神宮寺(じんぐうじ)だったが、現在は廃絶しました。
- 1470年(文明2年)に応仁の乱(おうにんのらん)により、焼失したとも言われています。
- 1476年(文明8年)に室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が妻・日野富子(ひのとみこ)の縁により、法界寺を訪れたとも言われています。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の出来事】
- 1533年(天文2年)に醍醐寺(だいごじ)の塔頭(たっちゅう)三宝院(さんぼういん)に属し、醍醐寺から100石が分与されたと言われています。
- 大永・天文年間(1521年~1555年)頃に戦火により、焼失したとも言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
- 天正年間(1573年~1592年)に織田信長の兵火により、薬師堂が焼失しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 江戸時代前期に法界寺が荒廃していたと言われています。
- 江戸時代後期に法界寺の近くに日野誕生院(ひのたんじょういん)が創建されました。文化年間(1804年~1818年)に西本願寺19代・本如(ほんにょ)が親鸞聖人の生誕地の調査が行い、衰退していた法界寺の復興の為に寄進を行いました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 1904年(明治37年)に奈良斑鳩・伝燈寺の本堂が法界寺に移築され、現在の薬師堂として建立されました。
【法界寺の開基とされる日野資業】
法界寺開基である日野資業は988年(永延2年)に藤原有国と橘徳子の七男として生れました。1003年(長保5年)に文章得業生になり、1006年(寛弘3年)に式部少丞に任ぜられました。その後式部大丞・刑部少輔・右少弁などに歴任し、1011年(寛弘8年)に三条天皇が即位して敦成親王が春宮になると東宮学士を兼任しました。その後五位蔵人・検非違使佐・判官代・文章博士・左少弁・丹波守・式部大輔などに歴任し、1045年(寛徳2年)に従三位に叙せられて公卿に列しました。1051年(永承6年)に出家して日野山庄に隠居しました。日野資業は和歌・文章道に優れて文章博士になり、後一条天皇の侍読を務めました。日野資業は1070年(延久2年)に亡くなりました。
【法界寺 備考】
*参考・・・法界寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia