醍醐寺三宝院枕流亭・松月亭・醍醐寺見どころ(修学旅行)

醍醐寺三宝院枕流亭・松月亭

●醍醐寺三宝院枕流亭は庭園(特別名勝・特別史跡)の南東、松月亭は奥宸殿(重要文化財)の東北に建てられています。
●醍醐寺三宝院枕流亭は安土桃山時代の1598年(慶長3年)に藤戸石(ふじといし)とともに聚楽第(じゅらくてい)から移されて関白・豊臣秀吉好みとも、江戸時代中期に建てられたとも言われています。枕流亭は上段の間・中段の間・水屋の間から構成されています。茶室では一般的に出入り口がにじり口(躙り口)だが、枕流亭では貴人口から屈まずに出入りすることができます。枕流亭では柱に平安時代に中国の亜熱帯地方から持ち込まれた棕櫚(しゅろ)や栗などの珍しい木が使われています。
聚楽第は安土桃山時代の1585年(天正13年)に関白に就任した豊臣秀吉(とよとみひでよし)が政庁兼邸宅とする為、1586年(天正14年)2月に着工し、翌1587年(天正15年)9月に完成し、豊臣秀吉が二条第(妙顕寺城(みょうけんじ))から移りました。1588年(天正16年)に第107代・後陽成天皇が行幸しました。1591年(天正19年)12月に豊臣秀吉が甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に氏長者(家督)と関白職を譲ると豊臣秀次の邸宅になり、翌1592年(天正20年)1月にも第107代・後陽成天皇が再度行幸しました。1593年(文禄2年)8月に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、1595年(文禄4年)7月に豊臣秀吉が豊臣秀次を高野山に追放して切腹し、翌8月から豊臣秀吉が聚楽第を徹底的に破却し、建物の一部が伏見城に移されました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院)の間に生まれました。先ず今川氏の家来で、引馬城の支城・頭陀寺城城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
●醍醐寺三宝院松月亭は江戸時代末期に建てられました。松月亭は四畳半で、東側に丸窓、南側に竹の縁・にじり口(躙り口)があります。松月亭は切妻造(きりづまづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。飛鳥時代(593年~709年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(国宝)の屋根にも用いられています。
醍醐寺見どころ

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