醍醐寺三宝院奥宸殿・醍醐寺見どころ(修学旅行・観光)

醍醐寺三宝院奥宸殿

●醍醐寺三宝院奥宸殿は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財に指定されました。
●醍醐寺三宝院奥宸殿は安土桃山時代の1598年(慶長3年)に建立されたとも、江戸時代初期に建立されたとも言われています。奥宸殿は三宝院門跡の常御殿で、田の字型をしており、上座の間・武者隠の間・次の間などがあります。主室の上座の間には床・棚(違い棚)・附書院などがあり、棚は醍醐棚(だいごだな)とも言われています。奥宸殿には初期の狩野派の襖絵が描かれています。なお奥宸殿は通常非公開です。
醍醐棚は違棚が奥の壁から離れ、一本の柱に支えられ、左右だけが壁についています。醍醐棚は修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)の霞棚(かすみだな)・桂離宮(かつらりきゅう)の桂棚(かつらだな)とともに「天下の三大名棚」と称されています。
狩野派は師匠である室町時代中期の画僧・小栗宗湛(おぐりそうたん)の跡を継いで、室町幕府の御用絵師になった狩野正信(かのうまさのぶ)が狩野派の祖です。その長男・狩野元信(かのうもとのぶ)は父・狩野正信相伝の漢画(かんが)の手法に大和絵(やまとえ)の手法を融合して狩野派様式を確立しました。狩野派は室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期までの約400年にわたって活動した日本絵画史上最大の画派です。狩野派には狩野永徳(かのうえいとく)・狩野探幽(かのうたんゆう)などの絵師を輩出しました。
修学院離宮は江戸時代前期に後水尾上皇(第108代・後水尾天皇)の第1皇女・文智女王(ぶんちじょおう)が草庵・円照寺(えんしょうじ)を営んでいた場所です。1655年(明暦元年)に後水尾上皇が文智女王を訪ね、隣雲亭(りんうんてい)からの眺めから修学院離宮の造営を決意したとも言われています。後水尾上皇の指示により、1656年(明暦2年)から江戸幕府が修学院離宮の造営を開始し、1659年(万治2年)に完成したとも言われています。
桂離宮は平安時代中期に太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)の山荘(別業(べつぎょう))・桂家(かつらや・桂殿(かつらどの))があった場所です。その後安土桃山時代の1590年(天正18年)に八条宮家(はちじょうのみやけ)が創設され、第106代・正親町天皇の皇孫である八条宮初代・八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)の別邸に造営されました。
●醍醐寺三宝院奥宸殿は入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
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