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福王子神社本殿・福王子神社見所(修学旅行・観光)
福王子神社本殿
●福王子神社本殿は1973年(昭和48年)6月2日に国の重要文化財に指定されました。
●福王子神社本殿は江戸時代前期の1644年(寛永21年)に仁和寺第21世・覚深法親王(かくしんほっしんのう)が江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進によって再建したと言われています。この時期仁和寺でも伽藍の再建が行われました。本殿は社名の由来になった班子皇后(はんしこうごう)を祀っています。なお本殿鎮護の為、木造の獅子(しし)と狛犬(こまいぬ)が置かれています。獅子・狛犬の台座裏には1644年(寛永21年)の墨書銘があり、仁和寺の文献から仁和寺再興時に制作されたと言われています。200年(平成12年)の祭神・班子皇后の没後1,100年祭に合わせて修理が行われ、金銀に彩色されました。
覚深法親王は1588年(天正16年)5月29日に第107代・後陽成天皇と典侍・中山親子の第1皇子として生まれました。1594年(文禄3年)6月に次期天皇即位を前提として親王宣下を受け、その後将来の東宮御所に正親町上皇(第106代・正親町天皇)の御所を与えられました。しかし1598年(慶長3年)に後ろ盾とも言われる関白・豊臣秀吉が亡くなると第107代・後陽成天皇が良仁親王を皇位継承者から外す意向を示し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後に江戸幕府初代将軍・徳川家康が良仁親王を廃し、第107代・後陽成天皇の正室・近衛前子が生んだ第3皇子・政仁親王が次期天皇に即位することになりました。1601年(慶長6年)4月に仁和寺の院家・真光院に入って得度し、晋海から灌頂を受けました。1614年(慶長19年)に一品に叙せられて法中第一座の宣下を受け、その後仁和寺門跡になりました。なお覚深法親王は1648年(慶安元年)3月15日に亡くなりました。
班子皇后は833年(天長10年)に第50代・桓武天皇の第12皇子・仲野親王と母・当宗氏の娘として生まれました。その後第54代・仁明天皇の第3皇子・時康親王(第58代・光孝天皇)と結婚し、是忠親王、是貞親王、第59代・宇多天皇となる定省親王、源元長、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王、為子内親王の四男・四女を生みました。884年(元慶8年)に夫・時康親王が第58代・光孝天皇に即位すると女御になり、887年(仁和3年)に皇子・定省親王が第59代・宇多天皇に即位すると皇太夫人になり、897年(寛平9年)に孫・敦仁親王が第60代・醍醐天皇が即位すると皇太后になりました。班子皇后は洞院后と称され、浄福寺を建立し、寛平御時后宮歌合の主催しました。なお班子皇后は900年(昌泰3年)5月2日に亡くなりました。
●福王子神社本殿は一間社(いっけんしゃ)春日造(かすがづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
春日造は仏教建築の影響を受け、奈良時代中期に現れたとも言われています。春日造は奈良市の円成寺(えんじょうじ)の春日堂(国宝)・白山堂(国宝)が最古の例になります。ちなみに春日堂・白山堂は鎌倉時代の1228年(安貞2年)に春日大社の本殿を移築したものと言われています。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。
福王子神社