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東本願寺菊の門(勅使門)・東本願寺見所(修学旅行・観光)
東本願寺菊の門(勅使門)
●東本願寺菊の門(勅使門)は登録有形文化財です。
●東本願寺菊の門(勅使門)は1911年(明治44年)に宗祖650年遠忌事業として、京都府の技師・亀岡末吉(かめおかすえきち)の設計によって再建されました。
一般的に勅使門は天皇の使者・勅使が寺院に参向した際に出入りに使われる門です。ちなみに使者は上皇の場合に院使(いんし)、皇后の場合に皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の場合に中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の場合に皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の場合に女院使(にょいんし)と言われます。
亀岡末吉は1865年(慶應元年)12月21日に前橋藩士の子として生まれました。画家を志し、東京美術学校の絵画科に入学し、1894年(明治27年)に卒業しました。1901年(明治34年)から内務省の古社寺調査に携わり、寺社の修理に従事しました。その後宮城県技師になり、1907年(明治40年)に京都府技師になり、平等院(びょうどういん)鳳凰堂(ほうおうどう)を修理しました。また東福寺(とうふくじ)の方丈や東本願寺(ひがしほんがんじ)・仁和寺の門なども再建しました。ちなみに仁和寺では霊明殿・宸殿も設計し、亀岡末吉の設計は「亀岡式」と言われました。なお亀岡末吉は1922年(大正11年)11月26日に亡くなりました。
親鸞聖人は1173年(承安3年)5月21日に日野有範(ひのありのり)と吉光女(きっこうにょ)の長男として生まれました。1181年(治承5年)に叔父・日野範綱(ひののりつな)に伴われて天台三門跡・青蓮院(しょうれんいん)に入り、その後天台座主・慈円(じえん・慈鎮(じちん))のもとで得度し、範宴(はんねん)と称しました。出家後に比叡山(ひえいざん)で20年間修行を続けました。1201年(建仁元年)に聖徳太子創建とされる六角堂(ろっかくどう)に百日参籠し、夢告に従って浄土宗の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の門弟になり、浄土教を学びました。法然上人から綽空(しゃっくう)の名を与えられ、その後法然上人の許しを得て恵信尼(えしんに)と結婚したとも言われています。1207年(建永2年)に後鳥羽上皇の怒りに触れる承元の法難(じょうげんのほうなん)に連座し、専修念仏が停止され、法然上人と親鸞聖人を含む7名の弟子が流罪になりました。越後に配流され、1211年(建暦元年)11月に勅赦なったが、1212年(建暦2年)1月に法然上人が亡くなると京都に戻らず、信濃・下野・常陸などの約20年間に渡って東国布教を努め、常陸稲田で4年の歳月を掛けて浄土真宗の教義を体系化した「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を著しました。60歳で帰洛の途につき、62歳頃に帰京し、京都で転々と住居を移して教化と著述に努めました。なお親鸞聖人は1263年(弘長3年)に90歳で亡くなりました。
●東本願寺菊の門(勅使門)は四脚門で、切妻造(きりづまづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。前後に軒唐破風(からはふ)付きです。菊の門は黒漆塗りで、極彩色の文様が施されています。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
東本願寺見どころ