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地主神社拝殿・地主神社見所(修学旅行・観光)
地主神社拝殿
●地主神社拝殿は1966年(昭和41年)6月11日に国の重要文化財に指定されました。
●地主神社拝殿は江戸時代前期の1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が再建しました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代、乳母は春日局(かすがのつぼね)です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
一般的に一般的に拝殿は神社で祭祀・拝礼を行なう為の社殿です。拝殿は本殿前に建立されるが、拝殿がない神社(春日大社・伊勢神宮など)や拝殿が2つある神社(伏見稲荷大社・明治神宮など)などがあります。拝殿が2つある場合、手前の拝殿が外拝殿(げはいでん)、奥の拝殿が内拝殿(ないはいでん)と言われます。また拝殿の中央が土間で、通り抜けられる場合には割拝殿(わりはいでん)と言われます。ちなみに本殿と拝殿の間に幣帛(へいはく)を奉る幣殿(へいでん)が建立される場合もあります。拝殿は一般に本殿よりも大きく建立され、鈴(鈴の緒(すずのお))や鰐口(わにぐち)が設置される場合もあります。拝殿は舞殿・神楽殿などを兼ねる場合もあります。なお拝殿では神職が祭祀を行う際に神職などが着座します。拝殿では参拝者が拝礼を行う際に手前で拍手を打ちます。
●地主神社拝殿には鏡天井に狩野派2代目で、絵師・狩野元信(かのうもとのぶ)が描いた雲龍図・丸竜があります。
狩野元信は室町時代の1476年(文明8年)8月28日に狩野派の祖・狩野正信(かのうまさのぶ)の長男または次男として生まれました。10才の時に室町幕府第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)の近侍になり、その後父・狩野正信の跡を受けて室町幕府の御用絵師になりました。狩野元信は父・狩野正信の画風を継承し、漢画(水墨画)と大和絵(土佐派)を融合した新しい画風の大成し、狩野派の基礎を築きました。狩野元信は土佐光信(とさみつのぶ)・雪舟(せっしゅう)とともに本朝三傑と称されています。狩野元信は1513年(永正10年)に室町幕府31代管領・細川高国(ほそかわたかくに)の命で「鞍馬寺縁起絵」を制作し、その後大徳寺(だいとくじ)の塔頭・大仙院(だいせんいん)の障壁画(四季花鳥図8幅)、石山本願寺(いしやまほんがんじ・大坂御坊)の障壁画、妙心寺(みょうしんじ)の塔頭・霊雲院(れいうんいん)の障壁画などを制作しました。また狩野元信は大炊寮(おおいりょう)の次官である大炊助(おおいのすけ)・越前守(えちぜんのかみ)に任ぜられ、1545年(天文14年)頃に僧の位である法眼(ほうげん)に叙されました。なお狩野元信は1559年(永禄2年)11月5日に亡くなりました。
雲龍図は龍が仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう)のひとつとされていることから法堂(はっとう)などの天井に描かれています。法堂は僧侶が経典の講義や説教などをする場で、雨を呼ぶ水神の龍が仏法の教えを雨のように降らすと言われています。また水神の龍が寺院を火から守るとの意味も込められていると言われています。なお八部衆は天(てん)・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩ご羅伽(まごらが)です。
地主神社見どころ