建仁寺陀羅尼鐘・建仁寺見どころ

建仁寺陀羅尼鐘

●建仁寺陀羅尼鐘(陀羅尼の鐘)は東鐘楼に吊るされています。陀羅尼鐘は建仁寺開山・栄西禅師(明菴栄西(みょうあんえいさい))が在世の時(平安時代後期~鎌倉時代前期)に鴨川の七条の下流、釜ヶ淵(かまがぶち)に沈んでいたものを「えいさい」「ようさい」と栄西禅師の名を呼びながら引き上げたとも言われています。陀羅尼鐘は光源氏のモデルと言われている第52代・嵯峨天皇の第8皇子・源融(みなもとのとおる)の別荘・六条河原院(ろくじょうかわらのいん・塩竃第)にあったとも言われています。なお陀羅尼鐘の名称は修行僧が寝につく亥の刻(午後10時)過ぎに観音慈救陀羅尼を一万返唱しながら撞くことに由来しています。
六条河原院は平安時代前期にかつて陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)だった源融が陸奥国塩竈の風景を模して庭園を造ったと言われています。六条河原院は北側の六条坊門小路・南側の六条大路・東側の東京極大路・西側の萬里小路に囲まれた広大な敷地だったと言われています。六条河原院には鴨川の水を引き入れて池が造られたと言われています。六条河原院では在原業平(ありわらのなりひら)などの文人・歌人などが多く集まり、風情を楽しんだと言われています。また兵庫尼崎から毎月30石の海水を運んで、塩焼き(製塩)を楽しんだと言われています。
源融は平安時代前期の822年(弘仁13年)に第52代・嵯峨天皇と女官・大原全子(おおはらのぜんし)の第8皇子として生まれました。838年(承和5年)に元服して正四位下に叙せられ、義兄で、第54代・仁明天皇の養子になりました。源の姓を賜って臣籍に下り、嵯峨源氏融流初代になりました。29歳で太政官の最高幹部で国政を担う公卿(くぎょう)に列し、856年(斉衡3年)に参議(さんぎ)になりました。その後870年(貞観12年)に大納言(だいなごん)になり、872年(貞観14年)に太政官の首班に立って左大臣(さだいじん)になりました。しかし876年(貞観18年)に第57代・陽成天皇が即位し、約15歳年下で、太政官の席次も下位の右大臣(うだいじん)・藤原基経(ふじわらのもとつね)が天皇の外戚として摂政(せっしょう)になると自宅に引き籠りました。884年(元慶8年)に第57代・陽成天皇が譲位する際、皇位を望んだが、藤原基経に止められたとも言われています。源融は鴨川のほとりに豪壮な別荘・六条河原院を営んで、河原左大臣と言われ、豪奢な生活を送りました。ちなみに嵯峨の別荘・栖霞観(せいかかん)は後に清凉寺(せいりょうじ)、宇治の別荘は後に平等院(びょうどういん)になりました。なお源融は895年(寛平7年)9月17日に亡くなりました。
陀羅尼は仏教で用いられる呪文の一種です。陀羅尼は記憶して忘れないという意味があり、陀憐尼(だりんに)・陀隣尼(だりんに)とも書き、総持(そうじ)・能持(のうじ)・能遮(のうしゃ)とも意訳します。陀羅尼はサンスクリット語原文を漢字で音写したものを音読して唱えます。陀羅尼は本来暗記して繰り返すことで雑念を払い、無念無想の境地に至ることを目的としています。
一般的に梵鐘は寺院で時刻や非常を告げる鐘です。梵鐘は除夜の鐘でも知られています。梵鐘は釣鐘(つりがね)・撞鐘 (つきがね) とも言われるが、大鐘(おおがね)・洪鐘(おおがね・こうしょう)・撞鐘(どうしよう)・蒲牢(ほろう)・鯨鐘(げいしょう)・巨鯨(きょげい)・華鯨(かげい)・突鐘(つきがね)・鴻鐘(こうしよう)・鳧鐘(ふしよう)・九乳(くにゆう)・青石(せいせき)・霊鐘(れいしよう)などとも言われています。梵鐘はインド(天竺)で集会の際に用いられた木製のかん稚(かんち)と中国の銅鐘に基づいて造られました。日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・奈良時代成立」には562年(第29代・欽明天皇23年)に古墳時代後期の豪族・大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が梵鐘を高句麗(こうくり)から日本に持ち帰ったとの記録が残っています。ただ梵鐘は現存せず、梵鐘の内面に「戊戌年(698年)筑前糟屋評(福岡市)造云々」の銘がある京都・妙心寺(みょうしんじ)の梵鐘(国宝)が日本製の最古の梵鐘です。梵鐘は銅に少量の錫(すず)・亜鉛(あえん)などを混じて鋳造されます。梵鐘は上部に鐘楼に吊るす釣り手として竜頭(りゅうず)があり、下部に一対の蓮華(れんげ)状の撞座(つきざ)を配し、これを橦木(しゅもく)で突きます。梵鐘に上帯・中帯・下帯・乳の間・乳・草の間・池の間・駒の爪などがあります。
建仁寺見どころ

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