北野天満宮文子天満宮・北野天満宮見どころ(修学旅行・観光)

北野天満宮文子天満宮

●北野天満宮文子天満宮は北野天満宮の末社です。文子天満宮は平安時代前期に多治比文子(たじひのあやこ)が菅原道真(すがわらのみちざね)を最初に祀った社と言われています。文子天満宮はかつて西ノ京(京都市上京区北町)に祀られていたが、明治時代に境内の現在の場所に遷され、旧地は御旅所(おたびしょ)になりました。なお文子天満宮は北野天満宮と同じく、菅原道真を祀っています。
多治比文子は奇子・綾子・あや子とも書く、平安時代前期の巫女(みこ)とも、菅原道真の乳母(うば)とも言われています。多治比文子は平安京右京七条二坊十三町に住み、903年(延喜3年)に菅原道真が左遷された大宰府で亡くなり、942年(天慶5年)に北野の右近馬場に社殿を設け、菅原道真の霊を祀るようにと神託(託宣)を受けました。しかし身分が低かったことからできず、自宅または自宅近くに仮の叢祠(そうし)を造って祭祀していました。5年後の947年(天暦元年)に神良種(みわのよしたね)の子・神太郎丸(みわのたろうまる)に再び神託(託宣)があり、朝廷の命により、朝日寺(あさひでら・東向観音寺(ひがしむきかんのんじ))の最鎮(さいちん・最珍)らとともに社殿を北野に造営し、北野天満宮が創建されました。多治比文子は北野天満宮の創祀者とも言われています。
菅原道真は平安時代前期の845年(承和12年)8月1日に公家・菅原是善(すがわらのこれよし)と母・伴真成(とものまさしげ)の娘の三男として生まれました。幼少の頃から和歌・漢詩に優れ、862年(貞観4年)に大学寮(だいがくりょう)で紀伝道(きでんどう)を専攻する文章生(もんじょうしょう)試験に合格し、867年(貞観9年)に文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に選ばれ、正六位下(しょうろくいげ)・下野権少掾(しもつけごんのしょうじょう) に叙任されました。式部少輔(しきぶしょう)・文章博士(もんじょうはかせ)を歴任し、880年(元慶4年)に父・是善が亡くなると祖父・菅原清公(すがわらのきよきみ)以来の私塾・菅家廊下(かんけろうか)を主宰しました。886年(仁和2年)に讃岐守(さぬきのかみ)に任命されると讃岐国に下向したが、890年(寛平2年)に第59代・宇多天皇(うだてんのう)の側近として帰京し、893年(寛平5年)に参議(さんぎ)・式部大輔(しきぶのたいふ)に任ぜられ、その後国政を担う公卿(くぎょう)に列しました。899年(昌泰2年)に右大臣(うだいじん)に任命され、901年(延喜元年)に従二位(じゅにい)に叙せられたが、「第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)を廃立して娘婿の斉世親王(ときよしんのう)を皇位に就けようと謀った」という左大臣(さだいじん)・藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(告げ口)により、太宰府(だぜいふ)に左遷されました。なお菅原道真は903年(延喜3年)2月25日に太宰府で亡くなりました。
●北野天満宮文子天満宮は本殿が一間社(いっけんしゃ)流造(ながれづくり)の銅板葺(どうばんぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
銅板葺は銅を薄くした銅板で屋根を葺く方法です。銅板葺は近世に本格的に始まり、神社・霊廟などに多く用いられています。銅板葺は瓦葺に比べると自重が軽くて耐震性があり、檜皮葺・こけら葺に比べると耐久性があるとい言われています。
北野天満宮見どころ

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