北野天満宮太閤井戸・北野天満宮見どころ

北野天満宮太閤井戸

●北野天満宮太閤井戸は安土桃山時代の1587年(天正15年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が九州平定と聚楽第(じゅらくだい)造営を記念し、北野天満宮で北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ・北野大茶会)を催した際、茶点ての水として使ったと言われています。太閤井戸近くには1974年(昭和54年)11月に京都市茶業組合が創立100周年記念に建立した高さ約2.1メートルの石碑・大茶湯之址(おおちゃのゆのあと)があります。なお北野天満宮太閤井戸は駐車場の中にあり、柵が設けられています。
豊臣秀吉は戦国時代(室町時代後期)の1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城(ひくまじょう)の支城・頭陀寺城(ずだじじょう)城主・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長(おだのぶなが)に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城(ながはまじょう)城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
北野大茶湯(北野大茶会)は安土桃山時代の1587年(天正15年)11月1日(旧暦10月1日)に関白・豊臣秀吉が北野天満宮境内で行った身分を問わない無礼講の茶会です。1587年7月に九州を平定し、7月末から諸大名・公家や京都大坂の茶人などに茶会開催の朱印状を出し、7月28日に京都五条などに茶会開催の触書を出し、9月から会場の工事が行われました。北野大茶湯では1,500軒以上の数寄屋や茶屋を建てて客をもてなしたり、豊臣秀吉が所有する名物(茶道具)を公開したりしました。豊臣秀吉は黄金の茶室を北野天満宮の拝殿(12畳分)の中央に持ち込み、茶入「似たり茄子(百貫茄子)」などの自慢の名物を陳列しました。豊臣秀吉は千利休(せんのりきゅう)・津田宗及(つだそうきゅう)・今井宗久(いまいそうきゅう)とともに亭主(茶頭)を務めました。なお北野大茶湯は当初10日間の予定だったが、たった1日で終わったそうです。ちなみに肥後(熊本県)の国人一揆が発生したことが切り上げの理由とも言われています。
北野天満宮見どころ

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