金地院八窓席・金地院見どころ

金地院八窓席

●金地院八窓席は1936年(昭和20年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●金地院八窓席は江戸時代前期の1628年(寛永5年)までに完成したとも言われています。金地院八窓席は小堀遠州(こぼりえんしゅう)が金地院崇伝(こんちいんすうでん・以心崇伝(いしんすうでん))の依頼により、織田信長の弟・織田有楽斎(おだうらくさい)好みの茶室を改修した言われています。金地院八窓席は大徳寺(だいとくじ)の塔頭・孤篷庵(こほうあん)の茶室・忘筌 (ぼうせん)と曼殊院(まんしゅいん)の茶室・八窓軒(はっそうけん)とともに京都三名席と言われています。
小堀遠州(小堀政一(こぼりまさかず))は安土桃山時代の1579年(天正7年)に備中国松山藩初代藩主・小堀正次(こぼりまさつぐ)と近江国佐和山城主・磯野員昌(いそのかずまさ)の娘の長男として生まれました。1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)が郡山城に移封されると家老となった父とともに郡山に移りました。その後1591年(天正19年)に豊臣秀長、1595年(文禄4年)に豊臣秀長の婿養子・豊臣秀保(とよとみひでやす)が亡くなり、1595年(文禄4年)に豊臣秀吉の直参になって伏見に移り、千利休(せんのりきゅう)とともに茶の湯を大成した茶人で、大名・古田織部(ふるたおりべ)に茶道を学んで第一の弟子と称されました。また公卿・歌人で、上冷泉家9代当主・冷泉為満(れいぜいためみつ)に歌道も学びました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)の功によって父・小堀正次が備中松山城を賜りました。その後作事奉行として建築・造園に才能を発揮し、二条城・仙洞御所などを手掛けたました。また江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の茶道師範にもなりました。1619年(元和5年)に近江小室藩に移封され、1624年(元和9年)に伏見奉行になり、1647年(正保4年)に伏見奉行屋敷で亡くなりました。
金地院崇伝は戦国時代(室町時代後期)の1569年(永禄12年)に室町幕府幕臣・一色秀勝(いっしきひでかつ)の次男として京都に生まれました。1573年(天正元年)に父・一色秀勝が亡くなり、南禅寺(なんぜんじ)266世・玄圃霊三(げんほうれいさん)のもとで出家しました。その後鷹峯金地院の靖叔徳林(せいしゅくとくりん)の法を嗣ぎ、醍醐寺(だいごじ)の塔頭・三宝院(さんぼういん)で学びました。摂津福厳寺(ふくごんじ)・相模禅興寺(ぜんこうじ)の住職になりました。1605年(慶長10年)に37歳で鎌倉五山第1位の建長寺(けんちょうじ)の住職になり、同年3月に鎌倉五山・京都五山の別格である南禅寺270世になり、第107代・後陽成天皇から紫衣(しえ)を賜りました。1608年(慶長13年)に相国寺(しょうこくじ)の西笑承兌(さいしょうじょうたい)の推薦により、江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に招かれ、幕政に参画して三要 元佶(さんようげんきつ)とともに主に外交事務を担当し、1610年(慶長15年)に居寺として駿府城内の金地院を賜りました。また寺社行政の担当にもなり、寺院諸法度の整備も行いました。更にバテレン追放令・禁中並公家諸法度の制定にも関わりました。1614年(慶長19年)からの大坂の陣の端緒となった方広寺(ほうこうじ)の鐘銘事件にも関与したとも言われています。1616年(元和2年)に徳川家康が亡くなり、その後の神格化の対応で一時権勢を失ったが、幕閣の執り成しで許されました。1618年(元和4年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)から江戸城北の丸に屋敷を与えられて金地院を建立しました。なお金地院崇伝は1633年(寛永10年)2月28日に江戸城内の金地院で亡くなりました。
織田有楽斎(織田長益(おだながます))は戦国時代(室町時代後期)の1547年(天文16年)に織田信秀(おだのぶひで)の11男として生まれました。兄・織田信長とは13歳離れています。1574年(天正2年)に尾張国知多郡を与えられ、大草城(おおくさじょう)を改修しました。その後兄・織田信長の長男・織田信忠(おだのぶただ)の旗下にあったとも言われています。1582年(天正10年)の本能寺の変(ほんのうじのへん)後に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、御伽衆(おとぎしゅう)になりました。また千利休(せんのりきゅう)に茶道を学び、高弟になって利休十哲(りきゅうじってつ)に数えられました。1590年(天正18年)に剃髪して有楽と号し、1594年(文禄3年)に関白・豊臣秀吉が前田利家(まえだとしいえ)邸を訪ねた際に室礼などを指導しました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)で江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)方に属し、大和国の3万2千石を与えられました。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で豊臣方の盟主に推されたが、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣に参加せず、京都に隠棲して茶の湯に専念しました。なお織田有楽斎は1622年(元和7年)1月24日に亡くなりました。
金地院見どころ

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