高山寺茶園・高山寺見どころ

高山寺茶園

●高山寺茶園はかつて中心的僧房・十無尽院(じゅうむじんいん)があった場所にあり、碑「日本最古之茶園」が建てられています。高山寺茶園はかつて清滝川(きよたきがわ)の対岸・深瀬(ふかいぜ)三本木にあったと言われています。なおお茶の種は臨済宗(りんざいしゅう)の開祖・明菴栄西(みょうあんえいさい)が南宋(中国)から持ち帰り、高山寺中興の祖・明恵(みょうえ)に贈ったとも言われています。
明菴栄西は平安時代後期の1141年(永治元年)5月27日に岡山県岡山市・吉備津神社(きびつじんじゃ)の権禰宜(ごんねぎ)・賀陽貞遠の子として生まれました。1151年(仁平元年)に備中・安養寺(あんようじ)の静心に師事し、1154年(久寿元年)14歳で比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)で出家得度しました。延暦寺・吉備の安養寺・伯耆の大山寺(だいせんじ)などで天台宗(てんだいしゅう)の教学・密教を学び、その後自分の坊号を冠した葉上流を興しました。1168年(仁安3年)4月に堕落した天台宗を立て直すべく、南宋(中国)に留学し、天台山万年寺(まんねんじ)を訪れ、同年9月に「天台章疎」60巻を持って帰国しました。1187年(文治3年)に再び南宋に渡り、仏法辿流の為にインド渡航を願い出るが、許可されませんでした。その後天台山万年寺の虚庵懐敞(こあんえじょう)に師事し、1189年(文治5年)に虚庵懐敞にともに天童山景徳寺(けいとくじ)に移り、1191年(建久2年)に虚庵懐敞から臨済宗(りんざいしゅう)黄龍派(おうりゅうは)の嗣法(しほう)の印可(いんか)を受け、号・明菴を授かりました。1191年(建久2年)に帰国して布教を開始し、お茶の種を持ち帰って栽培も始めました。1195年(建久6年)に博多・聖福寺(しょうふくじ)を創建して日本最初の禅道場にしました。1198年(建久9年)に京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、1200年(正治2年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)一周忌の導師を務め、源頼朝の継室・北条政子(ほうじょうまさこ)創建の寿福寺(じゅふくじ)の住職に招聘されました。1202年(建仁2年)に鎌倉幕府第2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)の外護によって京都・建仁寺(けんにんじ)を創建し、1204年(元久元年)に奈良・東大寺(とうだいじ)勧進職(かんじんしょく)に就任しました。なお明菴栄西は1215年(建保3年)8月1日に亡くなりました。
明恵上人は平安時代末期の1173年(承安3年)2月21日に高倉上皇(第80代・高倉天皇)の武者所に仕えていた平重国(たいらのしげくに )と紀伊国湯浅城城主・湯浅宗重(ゆあさむねしげ)の四女の子として生まれました。1180年(治承4年)に両親が亡くなり、翌1181年(養和元年)に神護寺(じんごじ)に入り、尊実(そんじつ)・景雅(けいが)らに密教・華厳(けごん)を学び、鎌倉時代初期の1188年(文治4年)に叔父で、文覚(もんがく)の弟子・上覚(じょうかく)を師事して出家し、奈良・東大寺(とうだいじ)戒壇院(かいだんいん)で修行者が遵守すべき具足戒(ぐそくかい)を受けました。また勧修寺(かじゅうじ)慈尊院(じそんいん)2世・興然(こうぜん)から密教を学び、東大寺尊勝院(そんしょういん)で華厳学の研究に励みました。1195年(建久6年)に紀州白上の峰(しらがみ)に遁世して籠り、1198年(建久9年)に高雄(たかお)に戻ったが、その後紀伊国内を転々としました。1206年(建永元年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)から栂尾(とがのお)の地を下賜されて高山寺を開山しました。明恵上人は華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行に励み、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力しました。なお明恵上人は「摧邪輪(ざいじゃりん)」・「摧邪輪荘厳記(しょうごんき)」・「華厳唯心義(けごんゆいしん)」・「華厳信種義(けごんしんしゅぎ)」・「入解脱門義(にゅうげだつもんぎ)」などを記しました。また明恵上人は40年の夢想を記録した「夢記」も記しました。
高山寺見どころ

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