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萬福寺大雄宝殿・萬福寺見所(修学旅行・観光)
萬福寺大雄宝殿
●萬福寺大雄宝殿は1913年(大正2年)4月14日に国の重要文化財に指定されました。
●萬福寺大雄宝殿は江戸時代中期の1668年(寛文8年)に建立されました。大雄宝殿では上層の額「大雄寶殿・隠元隆琦(いんげん りゅうき)書)」、下層の額「萬徳尊・木庵性とう(もくあんしょうとう)書)」、須弥壇上の額「真空・明治天皇(めいじてんのう)宸筆)」が架けられています。大雄宝殿は本尊(中尊)に釈迦如来(しゃかにょらい)坐像、両脇侍(きょうじ)に迦葉尊者(かしょうそんじゃ)立像と阿難陀尊者(あなんだそんじゃ)立像、両脇に十八羅漢(じゅうはちらかん)像を安置しています。
釈迦如来坐像は1669年(寛文9年)に京大仏師・兵部が造仏しました。釈迦如来坐像は像高約250.0センチの木造です。
迦葉尊者立像・阿難陀尊者立像は1674年(延宝2年)に天王殿に安置されている四天王とともに伊勢国の福島信士などの喜捨によって造仏されました。迦葉尊者立像・阿難陀尊者立像は像高約208.0センチの木造です。
十八羅漢像は1663年(寛文3年)に清(中国)の仏師・范道生(はんどうせい)が造仏し、陸奥国白河藩第2代藩主・本多忠平(ほんだただひら)が母(森忠政の娘・法光院)の菩提を弔う為に兄弟とともに寄進しました。十八羅漢像は像高130.0センチ前後の木造です。
釈迦如来は仏教の開祖であるお釈迦さま(ゴータマ・シッダッタ、ガウタマ・シッダールタ、瞿曇悉達多)の尊称です。釈迦如来は釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来、釈迦牟尼世尊などとも言われています。お釈迦さまは約2,500年前の旧暦の4月8日、インド国境に近いネパールのルンビニーの花園で、父・シャカ族の国王である浄飯王(じょうばんのう・シュッドーダナ)と母・摩耶夫人(まやふじん・マーヤー)との間に生まれました。お釈迦さまは生まれてすぐに7歩歩き、右手で天、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と唱えたとも言われています。29歳で出家し、35歳の旧暦の12月8日の夜明け前、明星出現と同時にブッダガヤの菩提樹の下で、悪魔の誘惑に負けずに悟りを開きました。その後約45年間に渡り、インド各地を回って教えを説き、クシナーラで亡くなりました。
●萬福寺大雄宝殿は桁行三間・梁間三間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。大雄宝殿は一重裳階(もこし)付きで、一見2階建てに見えます。ちなみに天井は黄檗天井とも言われる蛇腹天井(じゃばらてんじょう)になっています。なお大雄宝殿には日本国内唯一チーク材が使われています。チーク材はシャム(タイ)産で、オランダ人が台湾に運んできたものが、台風で長崎に漂着したものと言われています。チーク材は隠元隆琦禅師に帰依した豪商・勝性因(かつしょういん)居士と江戸幕府が寄進しました。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
裳階は仏堂などの本来の屋根の下に付けた差し掛けの屋根です。屋根が二重になるので2階建てと間違われたりします。白鳳時代に建立された法隆寺の金堂と五重塔が日本最古の例です。なお裳階は雨打 (ゆた) ・雪打 (ゆた) とも言われています。
萬福寺見どころ