妙喜庵待庵・妙喜庵見どころ(修学旅行・観光)

妙喜庵待庵

●妙喜庵待庵は1903年(明治36年)4月15日に国の重要文化財、1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定されました。
●妙喜庵待庵は安土桃山時代(1573年~1593年)に建てられました。待庵は寺伝によると1582年(天正10年)に豊臣秀吉と明智光秀による山崎の戦いが行われた際、豊臣秀吉が陣を敷いて陣中に茶人・千利休を招いて二畳の茶室を造られ、その後茶室は解体され、江戸時代に妙喜庵に移築・再建築されたと言われています。ちなみに江戸時代初期の1606年(慶長11年)に描かれた「宝積寺絵図」に妙喜庵付近に「かこひ(囲い)」の書き込みがあり、江戸時代初期には既に移築されていたとも言われています。「宝積寺絵図」には「宗鑑やしき」・「利休」の書き込みもあり、千利休がこの地に住み、その利休屋敷から移築されたとも言われています。なお待庵は日本最古の茶室で、千利休作と信じうる唯一の現存茶室と言われ、愛知県犬山市にある有楽苑(うらくえんの如庵(じょあん)・京都市にある大徳寺(だいとくじ)の塔頭・龍光院(りょうこういん)の密庵(みったん)とともに国宝三茶室に数えられています。
千利休は1522年(大永2年)に田中与兵衛と月岑妙珎の子として和泉国(大阪)堺に生まれました。17歳から茶の湯を習い、先ず茶匠・北向道陳に師事し、その後茶人・武野紹鴎に師事しました。1544年(天文13年)に松屋久政らを招いて茶会を開き、その後堺の実質的支配する三好氏の御用商人になりました。1569年(永禄12年)にいずれも千利休とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた今井宗久・津田宗及とともに織田信長の茶頭になりました。1582年(天正10年)の本能寺の変後に関白・豊臣秀吉に仕えて茶頭になりました。1585年(天正13年)に秀吉が禁中茶会を催した際、号・利休居士を与えられ、天下一の茶人としての地位を確立し、1587年(天正15年)に秀吉による北野大茶湯も主管しました。ちなみに利休は秀吉の政事にも関わり、キリシタン大名・大友宗麟が大坂城を訪れた際、豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告されたと言われています。しかし1591年(天正19年)に突然秀吉の逆鱗に触れ、1591年(天正19年)4月21日に切腹を命じられ、その首は一条戻橋で梟首されました。なお千利休は草庵風の茶室を完成し、朝鮮の茶碗や日常雑器を茶道具に取り入れ、簡素・清浄なわび茶(草庵の茶)を完成させました。
豊臣秀吉は1537年(天文6年)に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲)との間に生まれました。1554年(天文23年)頃から織田信長に仕え、1561年(天正9年)に浅野長勝の養女・ねね(北政所)と恋愛結婚しました。その後戦功を重ねて頭角を現し、1582年(天正10年)に明智光秀が信長に謀反を起こした本能寺の変後、山崎の戦いで光秀を破り、四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げ、1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。なお豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。
●妙喜庵待庵は茶室二畳・次の間一畳板畳付・勝手の間から構成され、切妻造(きりづまづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮・出雲大社などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
妙喜庵

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