三十三間堂太閤塀・三十三間堂見所(修学旅行・観光)

三十三間堂太閤塀

●三十三間堂太閤塀は国の重要文化財です。
●三十三間堂太閤塀は安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が方広寺(ほうこうじ)の大仏殿を建立した際に築造しました。太閤塀の修理の際に「天正十六年(1588年)・・・大ふつ殿瓦」と刻まれた豊臣家の桐紋がある瓦が発見されました。なお三十三間堂太閤塀は長さ約92メートル・高さ約5.3メートルです。
豊臣秀吉は戦国時代(室町時代後期)の1537年(天文6年)3月17日(旧暦2月6日)に織田信長(おだのぶなが)の足軽(百姓)・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(仲・天瑞院(てんずいいん))の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城(ひくまじょう)の支城・頭陀寺城(ずだじじょう)城主・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕え、1554年(天文23年)頃から戦国大名・織田信長(おだのぶなが)に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝(あさのながかつ)の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城(ながはまじょう)城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反を起こした本能寺の変(ほんのうじのへん)後、山崎の戦い(やまざきのたたかい)で明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に62歳で伏見城内で亡くなりました。
方広寺は安土桃山時代の1586年(天正14年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大和国の戦国大名・松永久秀(まつながひさひで・松永弾正(まつながだんじょう))の焼き討ちによって焼損した奈良・東大寺(とうだいじ)の大仏に代わる大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ))の造立を発願したのが起源です。大仏の造立は当初遣迎院(けんこういん)付近だったが、その後現在の場所で、豊臣秀吉の別荘・龍臥城(りゅうがじょう)があった佛光寺(ぶっこうじ)に変更されました。大仏の造立には刀狩りで没収した武器を利用し、大仏の大きさは東大寺の大仏よりも大きい6丈3尺(約19メートル)だったと言われています。1595年(文禄4年)に方広寺が完成したが、翌1596年(文禄5年)の慶長伏見地震によって大仏は倒壊しました。豊臣秀吉は「自らの身をも守れないのか」と激怒したとも言われています。その後大仏の代わって善光寺(ぜんこうじ)の善光寺如来(阿弥陀三尊)を移したが、豊臣秀吉が病に臥したのは善光寺如来の祟りではないかとされ、1597年(慶長2年)8月17日に善光寺如来は戻されることになったが、翌8月18日に豊臣秀吉が亡くなりました。江戸時代前期の1612年(慶長17年)に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が大仏殿と大仏を完成させました。1614年(慶長19年)に「国家安康」・「君臣豊楽」の銘文を刻んだ梵鐘が完成するが、銘文が江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の「家」と「康」を分断し、豊臣を「君主」とするものとして、方広寺鐘銘事件になり、豊臣家滅亡の発端になりました。1662年(寛文2年)の地震で大仏が大破し、1798年(寛政10年)の落雷で大仏殿と木造で再興され大仏が焼失しました。
【三十三間堂 備考】
*参考・・・京都・三十三間堂(拝観料・アクセス・歴史概要・見どころ・・・)ホームページ
●三十三間堂の歴史(創建から現在)を紹介しています。
三十三間堂歴史(後白河天皇・後嵯峨天皇)
●三十三間堂の見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)を紹介しています。
三十三間堂見どころ(蓮華王院本堂・千手観音など)

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