晴明神社千利休居士聚楽屋敷趾・晴明神社見どころ

晴明神社千利休居士聚楽屋敷趾

●晴明神社千利休居士聚楽屋敷趾は晴明神社に隣接しています。茶人・千利休は晴明神社境内にある晴明井を使って茶会を催したと言われています。石碑「千利休居士聚楽屋敷趾」は武者小路千家(むしゃこうじせんけ)家元・千宗守が奉納しました。
千利休居士聚楽屋敷は安土桃山時代の1586年(天正14年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が聚楽第(じゅらくてい)を造営した際にその周囲に千利休が屋敷を構えたものです。聚楽屋敷には色付(いろつけ)九間書院があり、上段の柱(太閤柱)に豊臣秀吉がもたれ、中段の突上窓(つきあげまど)から名残の月を眺めたと言われています。
聚楽第は安土桃山時代の1585年(天正13年)に関白に就任した豊臣秀吉(とよとみひでよし)が政庁兼邸宅とする為、1586年(天正14年)2月に着工し、翌1587年(天正15年)9月に完成し、豊臣秀吉が二条第(妙顕寺城(みょうけんじ))から移りました。1588年(天正16年)に第107代・後陽成天皇が行幸しました。1591年(天正19年)12月に豊臣秀吉が甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に氏長者(家督)と関白職を譲ると豊臣秀次の邸宅になり、翌1592年(天正20年)1月にも第107代・後陽成天皇が再度行幸しました。1593年(文禄2年)8月に豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生し、1595年(文禄4年)7月に豊臣秀吉が豊臣秀次を高野山に追放して切腹し、翌8月から豊臣秀吉が聚楽第を徹底的に破却し、建物の一部が伏見城に移されました。
千利休は室町時代後期の1522年(大永2年)に田中与兵衛(たなかよひょうえ)と月岑妙珎(げっしん)の子として和泉国堺に生まれました。17歳から茶の湯を習い、先ず茶匠・北向道陳(きたむきどうちん)に師事し、その後茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事しました。1544年(天文13年)に松屋久政らを招いて茶会を開き、その後堺の実質的支配する三好氏の御用商人になりました。1569年(永禄12年)にいずれも千利休とともに茶湯の天下三宗匠と称せられた今井宗久(いまいそうきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう)とともに織田信長の茶頭(さどう)になりました。1582年(天正10年)の本能寺の変後に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えて茶頭になりました。1585年(天正13年)に豊臣秀吉が禁中茶会を催した際、号・利休居士を与えられ、天下一の茶人(茶湯者)としての地位を確立し、1587年(天正15年)に豊臣秀吉による北野大茶湯も主管しました。ちなみに千利休は豊臣秀吉の政事にも関わり、キリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん)が大坂城を訪れた際、豊臣秀長(とよとみひでつぐ)から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告されたと言われています。しかし1591年(天正19年)に突然豊臣秀吉の逆鱗に触れ、1591年(天正19年)4月21日に切腹を命じられ、その首は一条戻橋で梟首(きょうしゅ)されました。なお千利休は草庵風の茶室を完成し、朝鮮の茶碗や日常雑器を茶道具に取り入れ、簡素・清浄なわび茶(草庵の茶)を完成させました。
武者小路千家は茶道流派のひとつで、三千家(表千家・裏千家)のひとつです。武者小路千家は千利休の孫・千宗旦(せんのそうたん)の次男・一翁宗守(いちおうそうしゅ)が茶室・官休庵(かんきゅうあん)が開いたことに始まります。なお武者小路千家は宗家が京都市上京区武者小路通り小川東入にあることに由来するそうです。
晴明神社見どころ

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