下鴨神社任部社・下鴨神社見どころ(修学旅行)

下鴨神社任部社

●下鴨神社任部社は河合神社境内に祀られています。任部社は河合神社創建とともに祀られたとも言われています。任部社はかつて専女社(とうめのやしろ)と言われ、「専女」は「稲女」とも書くことから食物を司る神々が祀られていたとも言われています。「百練抄(ひゃくれんしょう)」の1157年(安元元年)10月26日の条に小烏社と合祀されたと記されています。任部社は八咫烏命(やたからすのみこと)を祀っています。祭神・八咫烏命が日本の国土を開拓した神の象徴として、日本サッカー協会のシンボルマークになるとサッカー必勝の守護神になりました。
八咫烏は三本足の烏で、熊野本宮大社では三本の足は天(天神地祇)・地(自然)・人を表し、神・自然・人が同じ太陽から生まれた兄弟であることを示しています、ちなみに「やた」は「大きい」という意味で、八咫烏は大烏を意味しています。八咫烏は初代・神武天皇の東征の際、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が初代・神武天皇のもとに遣わし、山中で道に迷っていた皇軍を熊野国から大和国への道案内をしたとされています。日本最古の歴史書「古事記(こじき)・712年(和銅5年)編纂」では高皇産霊尊である高木大神(たかぎのおおかみ)が遣わし、日本最古の正史「日本書紀(にほんしょき)・720年(養老4年)完成」では天照大神(あまてらすおおかみ)が使神として遣わしたとされています。なお「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)・平安時代初期の815年(弘仁6年)」によると八咫烏は高皇産霊尊の曾孫で、下鴨神社の西本殿に祀られている賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身され、その後賀茂県主(かものあがたぬし)の祖となった記されています。
賀茂建角身命は「山城国風土記(やましろこくふうどき)」によると宮崎・日向(ひむか)の曽の峯(そのみね)に天降(あまくだ)り、初代・神武天皇を先導して大和(やまと)の葛城山(かつらぎさん)に宿り、その後京都・山城の岡田の賀茂から川沿いに賀茂川(鴨川)に至り、上流を遠望して大宮森(上賀茂神社西方)に鎮座したとも言われています。
河合神社は下鴨神社の摂社です。河合神社は858年(天安2年)に下鴨川合神が神階・従五位上を授けられたと記され、それ以前から祀られていたとも言われています。「延喜式神名帳(927年(延長5年))」で名神大社(みょうじんたいしゃ・式内社(しきないしゃ))に列せられ、賀茂川と高野川の合流部にあった社家の屋敷神として祀られていたとも言われています。なお河合神社は女性の守護神で、日本第一の美麗神と言われる玉依媛命を祀っています。
●下鴨神社任部社は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
流造は神社建築の一形式です。流造は正面入口にあたる屋根の一方(前流れ)が長く延びた形式です。流造は伊勢神宮(いせじんぐう)に代表される神明造(しんめいづくり)から発展し、奈良時代末期から平安時代に成立し、全国に広がりました。流造では上賀茂神社(かみがもじんじゃ)・下鴨神社(しもがもじんじゃ)がよく知られています。流造では正面(桁行)の柱間が1間(柱2本)の場合には一間社流造、3間(柱4本)の場合には三間社流造、5間(柱6本)の場合には五間社流造になります。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
下鴨神社見どころ

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