相国寺開山堂・相国寺見どころ(修学旅行)

●相国寺開山堂は京都府指定有形文化財です。
●相国寺開山堂は江戸時代後期の1807年(文化4年)に第116代・桃園天皇の皇后・恭礼門院(きょうらいもんいん・一条富子(いちじょうとみこ))の女院御所の御殿(黒御殿)を賜って再建されました。相国寺開山堂は仏堂として使用する為に増築や一部改造が行われ、現在相国寺開山堂は前方の礼堂(らいどう)と奥に続く中央の祠堂(しどう)から構成されています。相国寺開山堂は室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火で焼失し、江戸時代前期の1666年(寛文6年)に第108代・後水尾天皇が1665年(寛文5年)11月9日に23歳で亡くなった第11皇子で、八条宮(桂宮)第3代・八条宮穏仁親王(はちじょうのみや やすひとしんのう)の為に再建したが、1788年(天明8年)の天明の大火で焼失し、1807年(文化4年)に再建されました。
一般的に開山堂は寺院の開山の像を安置する建物です。開山は寺院に最初に住した僧侶のことを指します。開山堂は祖師堂(そしどう)・御影堂(みえいどう・ごえいどう)・影堂(えいどう)などとも言われています。
女院御所は先代の天皇の皇后である皇太后(こうたいごう)・崩御した天皇の皇后である太皇太后(たいこうたいごう)などの御所です。女院御所には大宮御所(おおみやごしょ)などがありました。なお女院(にょいん)は三后(太皇太后・皇太后・皇后(こうごう))やそれに準ずる身分(准后(じゅごう)・内親王(ないしんのう)・女御 (にょうご) など)の女性に宣下された称号です。第66代・一条天皇の母・藤原詮子(ふじわらのせんしが出家した際に「東三条院(ひがしさんじょういん)」を贈られたのが最初です。
●相国寺開山堂には正面奥に相国寺開山である夢窓国師(夢窓疎石(むそうそせき))像、西の壇に仏光国師(無学祖元(むがくそげん))像・仏国国師(高峰顕日(こうほうけんにち))像・普明国師(春屋妙葩(しゅんおくみょうは))像・足利義満(あしかがよしみつ)像を安置し、東の壇に相国寺有縁の宮家の位牌や像を安置しています。
夢窓疎石は鎌倉時代の1275年(建治元年)に伊勢国(三重県)に生まれました。幼少時に出家し、母方の一族の争いで甲斐国(山梨県)に移り、1283年(弘安6年)に甲斐・平塩寺(へいえんじ)の空阿(くうあ)に師事して天台宗・真言宗などを学びました。1292年(正応5年)に奈良・東大寺(とうだいじ)戒壇院の慈観(じかん)のもとで受戒し、その後京都・建仁寺(けんにんじ)の無隠円範(むいんえんぱん)に禅宗を学びました。その後鎌倉に赴き、奥州などを遊歴し、鎌倉時代後期の1325年 (正中2年) に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇の勅によって京都・南禅寺(なんぜんじ)の住持になりました。南北朝時代(室町時代)に室町時代初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の帰依を受け、京都・苔寺(こけでら)の中興開山になり、京都・天龍寺(てんりゅうじ)の開山になりました。夢窓疎石は1351年(観応2年・正平6年)10月20日に亡くなりました。なお夢窓疎石は歴代天皇から国師号を生前に夢窓国師(むそうこくし)・正覚国師(しょうがくこくし)・心宗国師(しんしゅうこくし)、死後に普済国師(ふさいこくし)・玄猷国師(げんにゅうこくし)・仏統国師(ぶっとうこくし)・大円国師(だいえんこくし)に渡って賜与され、七朝帝師(しちちょうていし)とも称されました。
相国寺見どころ

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